D. J. Bernstein [translated to Japanese by Yusuke Shinyama, 2005-11-26]
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ロシアへの旅 (My trip to Russia)

応用計算代数学の第6回 IMACS 学会は 2000年 6月に サンクトペテルブルクで開かれた。 ヴィクトル・パンは、私が代数アルゴリズムと代数的複雑性のセッションで 講演するよう招待してくれた。

準備

航空機は 4月には満員になり始めた。 学会の web ページにはまだ講演が正確に 何時に終わるのか書いていなかったし、会場から空港まで どれくらいかかるのかも書いていなかった。 学会の最終日は、たいてい正午に終わるというのが通例になっている。 私は主催者に 13:50 発のフライトは講演のスケジュールに合うかどうかきいた。 彼は合うだろうと答えた。私は航空券を買った。

学会の web ページには役に立つ情報も載っていた。 200ドルの学会参加料には 「開催料金、空港までの車、コーヒーブレイク、文化的イベント、パーティーも含まれる」と 書いてあった。 私はサンクトペテルブルクのタクシーはすべてヤクザによって仕切られていると 聞いていたから、車の件についてはありがたかった。 部屋は 2つのホテルで予約できた。 オクチャビルスカヤ・ホテルとソヴェトスカヤ・ホテルである。 ソヴェトスカヤ・ホテルは学会会場に「近くはない」と書かれていた。 オクチャビルスカヤ・ホテルのほうは 30ドルの部屋と 40ドルの部屋があり、 40ドルの部屋は「やや上質の家具と壁紙」をそなえている、と書いてあった。

私は web の登録フォームで申し込んだ。 私は誰か? 住所は? いつ到着するか? 出発するか? どのホテルに泊まるか? オクチャビルスカヤ・ホテルの 40ドルの部屋でおねがいします。 ビザは必要か? 国籍は? パスポート番号は? パスポートの有効期限は? 生年月日は? 彼らはパスポートのコピーをファックスするように言ってきた。 私の講演の題名は? 私は以前に知らせておいた仮のタイトルをやめて、最終的なタイトルを入力した。 (あとになって、彼らがスケジュールを書いたときには、彼らは仮のタイトルのほうを使っていた。) ほかにも参加料のために私はクレジットカード番号を渡した。

オイラー国際数学学会は 2000.05.24 に公式っぽいロシアの招待状をファックスしてきた。 私は web の http://www.russianembassy.org/CONSULAT/BSN-VISA.HTM でビザ申請手続きの方法をみつけ、ビザの申請書式を http://www.ruscon.com/forms/visa-app.pdf でみつけた。2000.06.05 に私は申し込み書類をロシア大使館に FedEx で送った。 そこには 80ドルの手数料の小切手、3枚のパスポート用写真、パスポートの写し、 依頼の手紙、そして FedEx の返信用ラベルも入れておいた。 ビザはワシントンから 2000.06.14 に届いた。

2000.06.23: 神からの啓示

フリーウェイで起こった大事故のおかげで、 シカゴのダウンタウンからオヘア空港へは 私が予想していたより 1時間余計にかかった。 ユナイテッド航空は私の席をすでにキャンセル待ちの乗客にあげてしまっていた。

2時間後にルフトハンザのフランクフルト行きの便があった。 それはフランクフルトに翌日の 8:00 に着く予定だったので、 まだサンクトペテルブルク行きの 8:50 の便には間に合うかもしれない。 私はその便に乗ることにした。飛行機は滑走路の横で 30分以上も止まっていた。そのうちようやく離陸した。

2000.06.24: 悪の帝国へようこそ

フランクフルトに着く 2〜3時間ほど前に、私はフライトアテンダントの一人に 我々は時間どおり到着するのかと尋ねた。彼は大丈夫だろう、と答えた。

私はフランクフルト空港の地図を見て、別のフライトアテンダントに 到着ゲートはどこかと尋ねた。彼女は、着陸態勢になるまで到着ゲートは 割り当てられないと答えた。

8:00 ちょっと前、私たちはまだフランクフルトから数百マイルも離れた場所にいた。 私はさらに別のフライトアテンダントに自分が 8:50 の便に乗ることを説明し、 彼女に到着ゲートと出発ゲートを教えてもらうことはできるかときいた。 数分後、彼女は到着ゲートを教えてくれたが、出発ゲートはわからないとのことだった。 しかし空港に入ればすぐに表示があるので、出発ゲートがわかるだろうという。

私たちは 8:25 に着陸した。数分後、私はようやく飛行機から脱出して、表示を見た。 そこは他の便の出発情報であふれかえっていた。あきらかに、サンクトペテルブルクは 大人気の行き先というわけではないようだった。

人々は近くにある別のゲートでチェックインしていた。 私はその列の前までスキップして、ようやくサンクトペテルブルクの 便がどこかをつきとめた。私は 10分の時間を残して間に合った。

ゲートの係員は私の持ち込み手荷物を貨物に入れると主張した。 機内は満員なのにちがいない、と私は思った。 実際には、 2/3 ほどしか埋まっていなかった。 私の席は隣にいる子供のオモチャで占領されていたので、 私は別の列に座った。

飛行機はさらに 15分ほどゲートに止まっていた。 「私どもはいまこの便に乗れなかったお客様の荷物を探しております」と機長は言っていた。 自分のじゃありませんように、と私は思った。

離陸後、フライトアテンダントが乗客全員にロシアの税関書類 2枚を配って歩いた。 私は自分の『ドリスタン・コールド (かぜ薬)』が彼らのいう “ドラッグおよび精神に異常をきたす物質”には相当しないだろうと判断したが、 “印刷物および情報メディア”については定かでなかった。 そこで私は“数学の論文”と書いておいた。

ついに私たちはサンクトペテルブルクに着陸した。 飛行機はしばらくの間、ひどい舗装の道路を走ったあと、ようやく止まった。 「すべてのゲートはふさがっております」 と機長が言う。 「我々は外縁部におりますので、ターミナルへはバスでおこしください」

60ヤード (訳注: 約50メートル) ほど離れたところに石づくりの建物があった。 あれはターミナルじゃないだろう、と私は思った。 私はバスの一台に乗ると、10分後にバスはその石づくりの建物まで行き、 そこで乗客全員を降ろした。

建物の中には WC の表示があった。私は我慢することにした。 入国審査で 10分、預けた荷物の受け取りに 30分、税関で 10分、 そしてついに私はロシアにいた。

私は出迎えの人が EIMI の表示をもっているのを見つけた。 彼は、このフライトには 6人の方が載っており、 そのうち 3人は両替をしているので、私たちは向こうで落ち合うことにする、と言う。 私は別の WC の表示を見つけたので、そちらへ向かった。 近くのテーブルにいた女性がなにかロシア語で私に向かってどなり、 看板を指さした。そこには 3Рув、と書いてあった。 私はため息をつき、両替の列に並ぶことにした。

ほかの 2人は数分おくれて着いた。 ガイドはホテルでも両替はできますから、と言った。 私たちは空港を出た。

30分後、私たちはオクチャビルスカヤ・ホテルにいた。 ガイドのフロントデスクとの言い合いがやむと、彼は 「パスポートを返してもらうのを忘れないようにしてください」と言った。 どうやら私たちはホテルに自分のパスポートとビザを 2時間のあいだ預けなければ ならないらしかった。そしてホテルはその情報を警察にファックスし、 警察は我々を牢屋に入れるかどうか決めるのだ。

パスポートとビザと引き換えに、私は自分の名前と出発日時、そして部屋番号を書いた カードをもらった。「少なくとも最初の一泊だけは先払いしていただく必要があります」 とガイドはいった。価格は 30ドルのようだった。私たちのうち 2人が、 webページではこれより上の部屋があったはずだということを説明しようとしたが、 ガイドは我々が何を言っているのかわからないらしかった。 ホテルの受け付けはさまざまな部屋の価格を指さしてみせた。 そのうちのいくつかは webページではダブル・ルームの価格として表示されていたようだったが、 どこにも 40ドルの部屋というのはなかった。私はあきらめて 30ドルの部屋にし、 4日ぶんを払った。

オクチャビルスカヤ・ホテルは 5階建てしかなかったが、おそろしく広い建物で、 騒がしい通りの交差点から広がって、ほとんど 1ブロックを占めていた。 なんらかの理由で、ホテルにはその交差点から入る口がなかった。 ロビーはそこから半ブロックほど行ったところで、 私の部屋は 4階にあり、その交差点の真上だった。 私は自分の部屋の近くにあるフロアデスクで ホテルのくれたカードとルームキーを交換した。

その部屋はおそろしく風通しの悪いところで、 空調はまったくなく、換気するような装置も何もないようだった。 だが幸運にも周囲には煙草の匂いがほんの少ししているだけだった。 私は中央の窓を開けようと試みたが、ハンドルをどっちの方向に回してみても、 その窓の枠木がゆがむだけだった。 私は側面のほうにある小さい窓のほうへ向かい、それは難なく開いた。 私は空気はこれで十分だと思い、中央の窓を壊す危険をおかすのはいいアイデアではないと考えた。 2日後、私はこのミスのために高い代償を支払うことになる。

部屋にはテレビ、椅子、なまぬるい冷蔵庫、電話のついた小さなテーブル、 そして貧相なベッドの模造品のようなものがあった。 ドアは内側からホテルの鍵でロックできるようになっていた。 浴室には流し台とタオル、カーテンのないシャワー、 ダンボールよりすこしは柔らかいトイレットペーパー、 そしてツァーの専制時代からあったに違いない便器があった。 いい点としては、TV は私が予想していたほど小さくはなかったし、 それは少しノイズが乗るだけで CNN を見ることができた。

私はそのあとパスポートを返してもらい、 本物のお金をモノポリーのお金に両替し、 それで半リットルのコークを街角の屋台で買うまで起きていた。 そのあと倒れるように寝た。

電話が鳴った。止まった。私はまた眠った。

また電話が鳴った。止まった。外はまだ陽がさしていた。 私はまた眠った。

また電話が鳴った。この時、私はどうにか自分の身体をひきずり、 ベッドを出て電話のところまで行き、電話線を引きぬいた。 目覚しコンピュータが狂ってるのか? 私は思った。 連中はロシアでもマイクロソフトを使ってるんじゃないだろうな? 私はまた眠った。

2000.06.25: 本物にはかなわない

冷蔵庫のコークは、その部屋の他の部分より少なくとも 5℃は冷たかった。 うーむ。

私はホテルを出てネフスキー通りを歩き、1マイル離れたところにある 学会会場へ向かった。ネフスキー通りは広く活発な通りで、 日曜の早朝だというのに、そこは車と歩行者であふれかえっていた。 しかし歩道の舗装はひどいもので、建物の多くはあきらかに 崩れかかっていた。

私はシュワノフ宮殿にある学会の登録デスクへ向かった。 アルファベットの基礎はマスターしたと思われる女性が私に 参加費の 250ドルを要求してきた。 私は、自分は 2ヵ月前にすでにクレジットカードで支払っていると伝えた。 彼女は誰かと相談し、あきらかに私の支払い記録は持っていないにもかかわらず、 文句を言おうとはしなかった。そのあと彼女は私の出発日を確認し、 エクスカーションに行くかどうかを尋ね、そして夕食会の チケットを 35ドルで売った。 これは参加費に含まれていなかったっけ? と私は思った。

学会の要綱集をめくっていると、それはセッションごとにまとめられており、 セッションの中では時間ごとに並べられていたが、目次も索引もなかった。 学会の主催者は参加者が複数のセッションを行き来するという可能性を 考えなかったのだろうか?

学会のオープニング・スピーチは 9:00 に予定されており、 テクニカル・トークは 9:15 から始まることになっていた。 実際に学会が始まったのは 9:35 で、これはその日ずっとあとまで スケジュールに混乱をきたすことになった。

私はカンファレンス・ルームのひとつに向かった。 ドアは開くときに金切り声をあげた。 そこには OHP プロジェクターと、持ち運べるスクリーンが置いてあった。 カーテンや壁、そして天井はあきらかに音を吸収するようなつくりになっていた。 子ネコが一匹、部屋の中を見まわしていた。 私はその午前のセッションに出ることにした。

午前中の最後の講演が終わると、地元の主催者の一人が 13:30 に下の階で待ち合わせるようにアナウンスした。 そこで、学会の主催者が近くのレストランで「フリーの」昼食を用意していることを知り、 私たちはみな驚いた。 そのレストランの食事は悪くなかった。

午後のコーヒーブレイクでは、コーヒーと紅茶、そして何本かの巨大な炭酸入り ミネラルウォーターのビンが用意されていた。私たちのうち 4人は そのミネラルウォーターを開けようとして、床にそれをこぼしていた。 午前中のコーヒーブレイクではたくさんのソフトドリンクが用意されていたが、 どうやらそれはこの宮殿の一年分の量だったらしい。 私はとなりにあるバーでコークを一本買った。

午後のセッションが終わると、もうひとつの驚くべきアナウンスが待っていた。 学会のパーティーがあるのは今夜だというのである。 最終的に私は学会のパーティーと学会の夕食会が別々のものだということを理解した。

パーティーの食事は悪くなかった。 最初に出されていた唯一の飲み物はワインだけだったのだが、 私たちはどうにか宮殿の従業員を説得し、 水を何本か持ってこさせた。

ホテルに戻ると、タオルは替えられていなかった。 私は新しいコークのビンを冷凍庫に入れ、眠りについた。

2000.06.26: もしかすると刑務所だって悪くないかも知れない

学会の 2日目は 15分遅れただけで始まった。 昼食は同じレストランだった。私はネフスキー通りにある KFC で夕食をとり、 ホテルの部屋に帰ってきた。 何回か自分の講演の練習をしたあと、眠りについた。

数時間後、私は突然目がさめた。 私はほとんど息ができていなかった。 ロシアの水にあたったのだろうか? 目を開けると、刺すような痛みが走った。 私は十分な酸素を得るため深く息をしてから、 薬箱をとりに浴室へ走った。

浴室のドアを開けて流し台の前へ向かうと、 突然また息ができるようになった。 なにかが空気中にあるんだ、と私は思った。 私は浴室のドアをばたんと閉めた。 連中が毒ガスを私の部屋に流しこんだのだろうか? 呼吸が元に戻るのに 30秒かかった。 私は冷水で目を洗って、水は出したままにしておいた。

私は自分がとれる選択肢を考えた。 私はまだこの部屋の中央にある窓の開け方を知らない。 あの窓を壊すべきだろうか? 私は思った。 廊下に脱出したほうがいいだろうか? 部屋のドアはホテルの鍵がなければ開かない。 鍵はどこだっけ? テーブルの上だ。私の眼鏡とともに、電話の横に置いてある。

私はタオルをぬらし、それで鼻と口がかくれるようにして浴室から飛び出して 浴室のドアをふたたび閉めた。すぐに私の目は刺されたように痛みだし、 タオルを通して匂いがしみこんできた。 アンモニアか? 私は思った。 どうすればこんなにアンモニアが生成されるのだろう? 私は眼鏡と鍵をすくい出し、走って浴室に戻った。

今回は目が元に戻るまでに長い時間がかかっているようだった。 ガスが部屋の中に充満してきているのだろうか? と私は考えた。 浴室の中の空気は、かすかな匂いが感じられるだけであとは普通だった。

私は死のゾーンへもう一度行き、ズボンを手に入れた。 私の眼鏡はガスが目に入るのを防ぐのに役立っているらしい。 浴室に戻ってきてズボンをはき、これであとは出がけに 私のバックパックさえ取れば必要なものはすべて揃ったことを確認した。

最後に私は浴室を捨て、そのドアを閉めた。 7秒後に、私は通路に出ていた。 20ヤードほど向こうのホテルデスクに女性が座っていて、何か仕事をしていた。 私は呼吸を整えた。

1分後、私はその女性を説得して部屋まで来るように言った。 部屋に近づくにつれて、彼女は鼻にしわをよせた。 彼女は部屋のドアを開けると、すぐに閉め、後ずさった。 そのあと私のほうを向いて 「移ってください」と言った。 いい考えだ、と私は思った。

私の新しい部屋はましなトイレットペーパー、ましな便器、そして本物のベッドがあった。 中央の窓は難なく開いたので、私はそれを開けたままにしておいた。 あきらかに、これが私が最初に尋いた 40ドルの部屋であることに間違いはなかった。 より上質の家具だ、それに毒ガスもない、と私は思った。 蚊がいたので私はそれを濡れタオルで叩きつぶした。

私はもとの部屋に戻った。 そのホテルの女性はメイドを呼びつけ、 勇敢にも彼女を部屋の中に送りこんで窓を開けさせた。 メイドは窓を開けるのに数秒間のあいだ手こずっているようだったが、 ついにそれを押し開け、部屋から飛び出して、1分間ほどそこに立って せきこんでいた。

ようやく私は自分の残りの荷物を古い部屋から出して、新しい部屋に移した。 私は古い鍵を返し、眠りについた。

2000.06.27: もちろん、でも彼女は荷物用ハカリに合いますかね?

新しい部屋ではお湯が出なかった。 それはお湯が冷たいのではなく、たんにお湯を出す蛇口のノブがまったく何もしないのだった。 私は冷たいシャワーを浴びた。

私はこの部屋になぜ私の衣服が置いてあるのか、 ホテル側が理解できるかどうか自信がなかったので、 紙切れに自分の名前を書いて、 古い部屋番号と新しい部屋番号を矢印で結び、 古い部屋番号のほうには“毒ガス”、 新しい部屋番号のほうには“お湯が出ない”と書いておいた。

私は部屋を出て、フロアデスクのほうへ歩いていった。 「鍵を」とその女性は言った。どうやら私はホテルを出るたびに 自分の鍵とホテルのカードを交換しなければならないらしかった。 私が自分の部屋にお湯が出ないことを説明すると、彼女は 「お湯を出して、20分待ちなさい」と言った。 私は何度か説明しようと試みたあげく、最後にはあきらめた。 会場の宮殿には 10分遅れて着いたが、セッションはまだ始まっていなかった。

昼食のあとは学会のエクスカーションだった。 2台のバス -- おおっと、みなさん全員は乗れない? じゃあ 3台目のバスが来るまで待ちましょう -- は我々を 1時間離れたサマー・パレスまで連れていった。 私はそのときそんなに観光したい気分ではなかったし、 サマー・パレスで見たもののうち、とくにそこで 2時間も 散歩する価値があったと思わせるようなものはなかった。 そこの噴水はシカゴの噴水ほどすばらしくもない。 このエクスカーションの一番よかったところは、 海を見下ろせる静かな場所があったことだ。

私たちのガイドは早足で行ってしまい、 我々の集団をひとつにまとめておこうという気はないらしかった。 彼女は我々が噴水のところに戻ってきたとき、あきらかに 前よりも小さい集団になっているのがお気に召さないらしかった。 途中で落伍した何人かの人々は 30分ほどたって戻ってきた。

「前回の学会では、何人もの人を行方不明にしたんじゃないですか?」 私は主催者の一人である、スタンリー・シュタインベルクに尋いた。

「これは我々が山の中で 20人のロシア人を失くしたことへの復讐なのだ」 と彼は言った。

最終的に私たちはあきらめて、バスの中にのりこんだ。 私たちは夕食会には 1時間遅れて着いた。 そこにはまだ沢山の食べ物が残っており、それらは悪くなかった。 私は自分の毒ガスの話を披露した。そこで私は、 サンクトペテルブルクにもシェラトン・ホテルがあること、 しかもそれがオクチャビルスカヤよりも会場に近かったことを知って ショックを受けた。 主催者側は参加者のうち何人かが文明社会から来ているということを 理解していなかったのではないだろうか?

ホテルに戻ると、私はお湯が出るかどうかチェックした。 このホテルがまともにやったことをひとつ誉めておくと、 そこには新しいノブがとりつけられており、お湯はうまく出るようになっていた。

うとうとしかけると、すぐに電話が鳴った。 もう時差ボケてはいない。私はベットから飛び起きると、受話器をとった。 今度こそ誰が電話してるのかつきとめてやるぞ、と私は思った。

「美しいロシア人のセックス・ガールはいかが?」 女性が尋いた。

「いいえ、結構です」と私は言った。 フロントで書類を渡すとかできなかったのか? と私は思った。 そして眠りについた。

2000.06.28: 自由

学会の主催者側は全員を空港まで送るのに十分な車を用意していなかった。 そこで彼らは私のためにタクシーを呼んだ。最初、彼らは 13:50 の便に 乗るためには 11:00 に出ればいいと言っていた。 私は空港までどれくらいかかるのかと尋いた。 彼らによれば、1時間だという。 じゃあ 12:00 に乗せてくれ、と私は言った。 それでも学会の予定が昼過ぎまで続いたせいで、 私は最後の講演を聞くことはできず、 さらにその前の講演の一部も ロシアのウォッカ二日酔い的な 15分の朝の遅れによって 聞くことができなかった。

空港へは 30分で着いた。 税関ではなにも問題がなかった。 警察は私に一度も声をかけさえしなかったな、と 私はちょっとがっかりしながら思った。 その後 SAS のコペンハーゲン行きの便は 20分遅れた。 すると、私は最後の講演まで残ることさえできたわけだ。 ようやく飛行機はひどい舗装の滑走路の上を走り、離陸した。 さよなら、ロシア。

私はコペンハーゲン空港でチョコレートを買い、 シカゴへの便で割り当てられる席を取るためゲートへ向かった。 誰かがゲートの係員に怒鳴っていた。 どうやら彼はオーバーブッキングの概念を理解していないらしかった。 ようやく彼はその係員を離れたので、 私は彼女に向かってニッコリした。 私の座席はシート 5B で、ビジネスクラスに乗ることになった。 彼の席は 16B だった。

そして私は家に着いた。