女子高生のカーネル領域における言語的等価性

新山 祐介

概要

この論文では UNIX と女子高生の数学的同値性を証明する。 高度に発達した離散的コミュニティでは、 そこで使用される言語=表象はおよそ一般的な話し言葉とは著しく異なったものに対応させられる。 本論文ではまず UNIX コミュニティにおける言語と女子高生コミュニティにおける言語の相似性を提示する。 つぎにこのような言語体系をうみだす環境の認知心理学的類似性について考察し、 UNIX が女子高生と数学的に等価であることを示す。また両者の今後の展開についても予測をおこなう。

相対的に分裂する主体

高度に発達したネットワークをもつコミュニティでは、各所属メンバーは自分の所属を意識せずにシステムに従属する。このような領域においては、ラトゥールが指摘したような特権化された「計算の中心」は存在せず、すべての主体は相対的な次元で表されるベクトルでしかありえない [Latour, 1999]。にもかかわらず、システムは自発的に現れる「専門言語」という制約を各個体に対して課すことによって、システム全体に創発的な専制的表象 -- 各個体の挙動および外部からの干渉によってカオス的に出現してくる一種のメタ具現化であるような2階の従属的可換テンソル -- を生みだす [Delauz, 1987]。本論文ではこれらのメカニズムを提供するひとつの理論を提示する。

ここで我々は、現代的な意味での領域を代表する主体として「女子高生」をとりあげることにしよう。このコミュニティはきわめて興味深い性質を備えている。各個体はネットワークによって互いに密に接続されており、頻繁な情報交換がなされる。またマスメディアによる大量洗脳が日々行われており、このような状況では自発的に現れたシステムは継続的な外的抑圧にさらされることになる。しかしながら女子高生コミュニティはこの状況を環境と自己表現の集合的積算によって生じたホメオスタシス的自律エージェントとなることによって「種の非線型平衡状態」を保つことに成功している [Virilio, 1993]。我々は彼女らの言語現象に着目したい。これらの専門言語はそのコミュニティを安定化させ、カオス的外圧からシステムを保護し強化するものであることを見ていく。とくに我々は、彼女らの存在が、同じくネットワーク上において発達し強化されてきた UNIX 言語と数学的に等価であることを示し、両者が存在論的に同一であること、とりわけ計算機システムによって人間のネットワークがまったく代替可能であることを証明する。

UNIX 言語との数理学的共通点 -- 最適化と並列化

まず最初の例として、我々は非常に初歩的な女子高生テクスト「チョベリバ!」を考える。これはいくつかの形態素のハイパーベクトル空間における準拠的 (レフェランス) 混合物であり、従来の男性優位の科学では表現できなかった概念であることは疑うべくもない。このテクストは次のような拡張チョムスキー型一般句構造文法によって置換 = 表現が可能である:

  1. <概念> → <主観限量子> <概念> | <主観演算子>
  2. <主観演算子> → ftranslingua(<主観限量子>)
  3. <主観演算子> → fabbreviation(<主観限量子>)
  4. <主観演算子> → fexaggeration(<主観限量子>)
  5. <主観演算子> → <一般限量子> | <一般評価識別子>
  6. <一般限量子> → “非常に”
  7. <一般評価識別子> → “悪い”

ここでは 2つの拡張型(非写像的)関数が使われる。トランス言語演算子 (translingua) は、ある言説を別の言語族に対応させる操作を指す。これによって本質的に日本語の超越演算子「超」から英語の ``very'' が、一般評価識別子「悪い」から英語の ``bad'' が生成される。また省略置換演算子 (abbreviation) は音節数をひとつ削減させる。この例では ``bad'' は「バ」に、「超」は「チョ」に変換せらるのである。超越演算子 (exaggeration) は、事態を必要以上に強調させてみせるという生物学的必然性を具現化する。以上のような言語システムから当初のテクスト「チョベリバ!」に対し多段階導出解析をほどこしてみると、以下のようになる:

ところで、読者は驚かれるかもしれないが、以上のような言語体系はまさに UNIX 言語におけるコンパイラ言語、つまりピア・ツー・ピアにおける JAVA トポロジーの構造とまったく同一なのだ。それのみならず、これらの法則は UNIX 世界における普遍的な文法構造をも包括するのである。以下の例でまったく同じ文法構造を用いて、UNIX 世界でしかおよそ通用しえないジャーゴンであるところの「xmkmf (おそらくこの文字列の発音方法さえも我々の常識からは著しくかけ離れているため、ここには文化人類学的特徴がみられる。これは後ほど考察する)」が生成されるのを見てほしい:

  1. <概念> → <一般オブジェクト記述子> <概念> | <一般オブジェクト記述子>
  2. <一般オブジェクト記述子> → ftranslingua(<一般オブジェクト記述子>)
  3. <一般オブジェクト記述子> → fabbreviation(<一般オブジェクト記述子>)
  4. <一般オブジェクト記述子> → fexaggeration(<一般オブジェクト記述子>)
  5. <一般オブジェクト記述子> → <動作述語識別子> | <クラスオブジェクト識別子>
  6. <動作述語識別子 > → “生成する”
  7. <クラスオブジェクト識別子> → “依存関係ファイル” | “へっぽこウインドウシステム”

この規則は上に適用した規則とほとんど同じものであることに注意。ここから我々は UNIX において重要なコマンドのひとつである“xmkmf”の導出を確認している:

以上の適用は、まったく異なる領域から発生した 2つの相異なるコミュニティ -- 女子高生および UNIX (ギーク的世界) -- が、外的な抑圧から自らのシステムを保護するため創発的に言語体系を変成させた例としてみることができよう。両者がこのような戦略をとったのは偶然ではない。すなわち、双方とも言語を必要以上に誇張し変換し短縮化した。これはシステム上において一種のスレッドセーフな暗号化ゲートウェイを構築することに相当する。つまり各主体は相互に暗号/復号化をくりかえす自律的分散型エージェントとみなすことができるのである。我々は以上で挙げた例以外にも「チョー MM (非常に + まじめに + ムカつく)」などが同様の規則によって適応しうることを見いだしている [新山, 2000]。ちなみにこの場合の UNIX における対応物は、UNIX の派生物である LINUX カーネルにおけるメモリ・マネージメント・モデル (MM) となることを付け加えておく。

ここで我々はひとつの倫理的問題が生じたことによって頭を悩ませねばならない。なるほど、たしかに科学は人類の歴史を (in a sense - ある意味で) 改善してきたといえるだろう。しかしこのように、人間の内在的認知機構と機械 (これは厳密にチューリング的な意味での「machinary」を意味する) を同一のモデルで扱ってしまってよいものであろうか? しかし我々はこの問いには今のところ答えずにすませたい。いずれにせよ、ここに示したトポロジー的構造 -- それが社会の変革に帰するところのものであるかどうかは神のみぞ知ると言いたいところではあるが -- は、何であれその内在的変成意識を表象するひとつの構造なのである。

もうひとつの共有コンテキストは、そのパラ並列性をしめす言説である。たとえば、次の文を見てみよう:

“…それで、そのあとアッくんと帰ってさー、そう、明日テストなんだけどー、でも、いま香織ちゃんそっちから出てったよー?、で、お母さんが茄子は身体に悪いって、…”

ここでの各文はプロセスを表す。この文脈の無視された例文では、各主題は中途まで提示されたまま、その完結を待たずに次の談話へと移行する(文脈はナル・ポインタにより閉じられている)。これが半ば閉じられたもの、すなわちトポロジーの包括的複号化におけるホモロジー代数の可換環と同一化 (本来は unification -- 単一化と呼ばれているが、ここでは我々の概念により一致するこちらの訳語を採ることにする) できることは周知の事実である。この文章は各プロセスの終了を待たずに次の談話が生成されている -- つまり前進的かつ並列的なスレッド化された発話 (threadized utterance) がみられるのである。これは何を意味するのであろうか? この答えは、これとよく似た UNIX 言語でのテクスト表現を見るとき明白になる:

find . -name '*.[ch]' | awk -F/ '{print $2}' | sort -r | uniq -c

上の例におけるバー表記 「|」はプロセスの「パイプライン化」を示している。これは上の女子高生言語における読点「、」に相当するメタ意味論的記述をもつ。各プロセスは同時に実行され、互いの終了を待たずに結果は貫通する。両者の完了しない発話を状態遷移図を用いて解説することは、本論文の範囲を超える技術的問題を含んでいるため割愛するが、彼女らが日常的にこのような完了しない「宙に浮いた」世界を体感していることは容易に想像できよう。これはプロセスとしての暴力、相対化構築物としての可能世界に溢れており、それ自体ラカン主義的な患者である。女子高生世界と UNIX 世界、両者の根底には 2つの文化における民族 -- その構成体として絶対唯一のインフラストラクチャに依存する -- の対面相互行為にける「儀礼」と「癒し」の問題が横たわっているとみることができる。つまりここにはセクシュアリティは存在せず、オースチンが言うところの「発話することによる儀式行為 (つまり稚拙きわまりないマウスによる管理システムを『未知の(X)ウインドウシステム』と呼ぶことなど)」が厳としてそのネットワークコミュニティへの入口であり同時にかつ反射鏡であるようなパケットフィルタリング的ファイヤーウォールとなっているのである [Austin, 1978]。ここでは各主体の成長、コミュニティにおける成熟性はその大脳生理学的成長よりも「形態的多弁さ (morphological verbosity)」によって判定され、より高度な言語生成規則を司るものが個体としての繁栄を得るとされる。しかしこの人類学的考察に関して我々はまだ確固とした証拠を得ていない。

以上の例からみるように、UNIX および女子高生には数理言語学的に共通する部分が数多くあり、結局のところこれらは同一である。ゲーデルを待つまでもなく、言語の構造における限界は人間の思考過程の無矛盾性を体現している。我々にできることはただ、このような社会構造が我々に及ぼしうる変化と退行への恐怖が杞憂であることを祈るだけである。

今後の予測

一般的にいって未来を予測することは危険であるが、本節ではあえてそれを試みることにする。現在のところ、女子高生の総体的エントロピーが最も高い領域は東京の渋谷であるが、これは近年ビットバレーとして知られており、これは UNIX の存在確率がもっとも (これは文字通りボルツマン的な過程を意味する) 高い領域である米国シリコンバレーと呼応する。とすると、反-UNIX 陣営の牙城であるワシントン州レッドモンドには巨大な「ビル」が存在するため、これは日本の東京における「新宿」と機能的に等価であるといえよう。すると今後の女子高生にとってのカウンターカルチャー、反-システム、すなわち非オートポイエーシスとなる抽象的実体が新宿から出現するのは必至であることは言うまでもない。

これに対抗するため、渋谷という総体そのものは何をもって対立的な構図を打ち出すだろうか。ここで我々の視界に入ってくるのは、もうひとつのビルの存在 -- つまり「池袋」である。池袋でビルといえばサンシャイン 60 であるが、サンとは高地ゲール語で「太陽」を表象し、これは UNIX 陣営における「サン」に相当する。すると池袋におけるビルというのは、その創始者であるもう一人のビルに相違ない。 (ラリーについては我々は現在まだ調査中であり、その結果をここで云々するには未だ時期早尚であると我々は判断する。) つまり今後の女子高生の形態的定量予測は、新宿をカウンターカルチャーとし、池袋を共立的 (コンシスタンス) メタモルフォーゼとしたビル街における大量の窓との闘争に発展すると思われる。

参考文献

Austin, J. L., 言語と行為, 坂本 百大 訳, 大修館書店, 1978

Deleuze, G., The Logic of Sense, Boundas C. V. (Ed.), Columbia University Press. 意味の論理学, 法政大学出版局, 1987.

Latour, B., Science in Action: How to Follow Scientists and Engineers through Society, CAmbridge, Mass, 1999. 科学が作られているとき -- 人類学的考察, 産業図書, 1999.

新山 祐介, 「現代の魔女裁判 -- メモリー・マネージメント (MM*) とマジ・むかつく (MM+)」, Towel Record Press, 2000

Sokal, A., Bricmont, J. , 「知」の欺瞞 - ポストモダン思想における科学の濫用, 田崎ほか訳, 岩波書店, 2000, ISBN4-00-005678-6

Virilio, P., ``The third interval: A critical transition'', In Rethinking Technologyes, pp. 3-12, Conley V. A. (Ed.), University of Minnesota Press, 1993.


Yusuke Shinyama