田中穂積先生の思い出

Last Modified: Wed Aug 5 21:41:53 JST 2009

(注意: この文章は、もと東京工業大学教授であった工学者の田中穂積先生について記しています。 そのほかの田中穂積については、 田中穂積 (曖昧さ回避) のページをご覧ください)

[田中研究室の写真]


(2009/8/1) きょう、田中先生の告別式が終わった。 正直いって、とても悔しい。なぜ悔しいかというと…いやそのことを話すのはやめよう。しかし、 あまりに悔しいので、誰かにこの感覚を話さないことには気がすまない。 でも周囲に誰もそんなことを聞きたがる人はいないので、 しょうがなくここに書いておく。

(2009/10/4) この文章は新山がなによりも自分のために書いたものである。 新山はつねづね、人が死んだあとに (もはや存在しない人物に対して) 親切な言葉をかけるほど偽善的なこともないだろうと思っていたので、 ここでは田中先生に面と向かって言いたかったようなことは一切書かない。 これは追悼文ではない。田中先生を記憶しておくための備忘録のようなものだ。

(この文章は永久に未完成です)


新山はおそらく、田中先生の教え子の一人…といえばいえるのだろう。 しかし正直いって、新山は決してほめられた学生じゃなかった。

はじめて田中先生にお目にかかったのは、たしか学部3年前期のときに受けた「人工知能基礎」という 授業だったと思う。1996年ごろである。はっきりいって、そのときの授業の内容はゼンゼン覚えていないし、 正直、ちゃんと講義に出てたかどうかもあやしい。内容はほとんど構文解析の話だったと思う。 なぜならそのあと夏休み中に大学図書館で「自然言語解析の基礎」を写し、Prologで“ヒジョーに苦しげな”レポートを 書いたという記憶がわずかにあるからだ。いま考えると、あれを採点してたのは誰だったんだろう? たぶん博士学生の誰かのはずだが…それともイヌイさんだったのかな? ちょうどその時期、新山は「ゲーデル・エッシャー・バッハ」にハマっていたので、 (幸いなことに) その程度のツマラナさではくじけたりしなかった。とりあえず、 新山の頭には「田中先生は人工知能の研究のようなものをやっているらしい」という感想だけが残った。

その後「オペレーティングシステム概論」で、ふたたび田中先生とお目にかかった。 この授業の楽しみは、先生の「世間話」であった。この授業になぜか新山と設楽はわりときちんと出席しており (児島や神谷は、試験のときを除いてほとんど出てなかったと思う)、新山は 毎回田中先生の授業と全然カンケーない話を聞きに行っていた。田中先生は 講演の最中に非常によく脱線する先生で、なにかあるとすぐに「ぼくが電総研にいたころは…」 とやりだすのである。(あとで聞いたところによると、最終講義のときもこんな感じだったらしい。) はっきりいって、純粋に教え方という面でみると、田中先生はあまりうまくなかったと思う。 しかし、そんなことはどうでもいいのである! そのころ新山はまだ GEB に入れこんでおり、新山は人工知能についてわりと興奮気味に質問していた。 たしか田中先生の研究室に所属を希望している、ということも言ったと思う。 そのときの田中先生の返答は「まあ、初志貫徹したら」というものだった。

その後、学部4年生になって、めでたく希望どおり田中研究室に所属し、学部生の3人 (入澤とみのるとオレ) で、 あの 808号室 (だったっけか?) のはじっこの窓側で、起動するのに何分もかかる腐った白黒 X端末をいじる日々が始まったのだ…。 新山がほんとうに UNIX に関する知識を身につけたのはここである。当時、新山はまだ "root" という存在になったことがなかった。それからの日々は、 自分の日記に書かれている。 はっきりいって、これはいまでもそうなのだが、新山はとても身勝手で生意気な学生であったと思う。 大学でも会社でも、新山は先生や上司のいうことを素直に聞かないヤツであった。 しかしこれまでの人生で、自分はほんとうに寛大な人々に恵まれていたと思う。 毎回「好きにやらせてもらっていた」という感覚があった。 これは田中・徳永研でもそうだったし、NYUに行ってからのセキネさんもそうだったし、 就職してすらそうだ。つくづく、自分はラッキーだと思う。

そういう意味では、新山が田中先生からうけた影響というのは、 なにか具体的な知識などではなく、もっと人間的な「態度」のようなものだったと思う。 そしてそれはとても貴重なことである。なぜなら、はっきりいって 特定の研究手法とか、その他の技術的なことなんて、どうでもいい瑣末なことだからだ。 “先生に教わる”ということは、(すくなくとも、この歳になったあとでは) なにも本に書いてあるようなことを学ぶのではなく、もっと総合的な (ある意味では曖昧な)、言葉では表現されていないようなものを学ぶのが大事なのだと 自分では思っている。もちろん、自分がそれを素直に受け入れたか、ということになると、 とてもそうは言えないのだが…でも、意識的にせよ無意識的にせよ、参考にはしていたと思う。 いまになって考えると、気がつかないうちに自分はかなり影響されていたんではないかと思える。 もしこれを“教育”と呼べるのであれば、そういう意味では、 自分はたしかに田中先生の教え子の一人かもしれない (先生がこれを喜ぶかどうかは別として)。

そういうわけで、新山にとって田中先生はそういうボスとしての「センセイ」であって、 何か具体的なアドバイスをくれる教育者ではなかった。新山が研究室に入ったころは 先生はすでに本当の研究をする時間などはなかったし、学生の面倒をみる時間もほとんどないようだった。 会議にばかり出させられている先生をみて、 「大学教授ってのは、つまんなそうな仕事だよな」と思ったことを覚えている。 正直なところ、研究者としての田中先生の業績は新山にはよくわからない。 新山は先生の昔の論文もほとんど読んだことがない。 むかしはバリバリのプログラマだった、という話は、聞いたことはあるのだが、 新山は田中先生がプログラミングしているのをついぞ一度も見たことがない。 それに、新山の知るかぎり、田中先生は計算機もたいして使えなかった。 いまから考えると、田中先生の OS の知識はたぶん 1980年代ぐらいで止まっていたはずで、 なんであの先生が OS の授業なんかを担当していたのかは今もってまったくの謎である。 新山が研究室にいたころ、田中先生が使っていた端末の画面にはいつも 24ポイントの Emacs と xbiff だけが表示されており、先生は mh-e を使ってメールを読んでいたが (ちなみに、田中先生はメールを C-c C-c で送信するときに「ジャンジャーン」という癖があった)、 UnixではWordファイルを読むことができないため、Wordファイルがメール添付されてくるたびに、 新山は先生の部屋に呼ばれたものである。そのためにわざわざ wvHtml を入れたりしたのは懐かしい。 だから新山は、米国に行くまで「大学教授というものは (たとえ情報系の教授であっても!) コンピュータなんか使わないし、プログラムも自分では書かないのだ」と思っていた。 その印象は米国で完全に変わったが、いまでもこれは日本ではおおむね正しいに違いない。

さて、逆説的に聞こえるかもしれないが、田中先生がこのような立場であったにもかかわらず、 新山にとって先生はいつも「子供」のように見えていた (こんなこと言ったら怒られるかもしれないけど)。 新山はよく、ほかの学生と「田中先生はなんかカワイイとこあるよねー」と話していたのである。 なぜなら田中先生は学生の研究成果をみて、褒めるというよりも、 むしろ (子供のように) 喜ぶタイプの人だったからだ。だから、 少なくとも新山は、親や上司から子供や部下が受けるような賞賛を期待して研究していたのではなかった。 新山はもっと直接的かつ現実的な目標、すなわち「田中先生をひたすら笑わせる」ために研究していた。 いま考えると、ウケることはウケたので、この目標はとりあえず達成したといえる。 田中先生が実際に新山のことをどう思っていたのかは、なんともわからないが…。 学部のとき、新山は先生から「きみは博士まで残って研究しろ」といわれたものだったが、 これは田中研では大抵の学生がそう言われるのだ。もし新山が先生から期待されていたとしたら、 それはとても申し訳ないことだと思う。なぜなら自分はそのあと東工大を逃げ出したのだし (少なくとも、新山はそう思っている)、米国にいったあとでも、 田中先生が期待したであろう研究者にはならなかったのだから、ひどい教え子である。 しかしまあ、田中先生はニコニコしながら許してくれるだろうと思う。

謙虚さとか寛大さというものは、研究論文では決してわからない。しかし、 ほかの多くのことと同じように、人間にとってほんとに大事なことは書かれないのだ。 おそらくこの文章にも本当に大事なことは書かれないのだろう。


以下、本文には収まらなかったが、 田中先生に関して新山が覚えているエピソードをいくつか書いておく。


田中研究室の写真

新山はことあるごとに、研究室にあったデジカメをこっそり拝借しては、 研究室のアホな出来事や笑える出来事を撮っていた。 残っている写真のうち、いくつか思い出深いものを以下に載せる。


いつぞや (98年) の見送りパーティーにて。
田中先生が写っているのはこれしかなかった。


97年度の卒業生に送った色紙に書かれた田中先生の言葉:
"Tokyo Institute of Technology is always behind you! 新職場でがんばれ!! 田中"


新山と同時期の4年生 (みのる、入澤)。向こうにはマンガの棚が見える。


808号室のキッチン。このコーヒーメーカーがよく詰まって苦労した。


博士課程3年のときの白井さん。


今井さん (当時博士課程2年)。このときはまだポスターは貼ってなかった。


田中研の不夜城であった 818号室の様子。


朝になるとみんな全滅していた。


822号室 (通称「ゆき部屋」) から見た、大岡山の雪景色。


引越し (2000年)。ガランとなった808号室。


サーバがほとんど引越したあとの 822号室。


新館 (西8号館) で引越し作業をする人々。


休憩室でワールドカップを観戦する人々。 (左から亀井先生、徳永先生、橋本さん)


Last Modified: Tue Apr 26 11:33:00 UTC 2011

Yusuke Shinyama