Computing Machinery and Intelligence

計算する機械と知性

A. M. Turing

アラン M. チューリング

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Originally published by Oxford University Press on behalf of MIND (the Journal of the Mind Association), vol. LIX, no. 236, pp. 433-60, 1950.
Acknowledge original place of publication and by permission of Oxford University Press or the sponsoring society if this is a society journal.

利用条件:
個人 web サイトのみ。個人的な研究目的のために 1部のみ印刷可。 教育目的の利用については別途 Oxford University Press より許可が必要。

電子化された原文:
http://www.abelard.org/turpap/turpap.htm あるいは
http://www.loebner.net/Prizef/TuringArticle.html

CHANGES:
2000/4/30: 最初のバージョンが完成。
2000/5/4: 武井 伸光さんによる、詳細な Typo のご指摘を受けて修正。ありがとうございます。
2000/5/9: Oxford University Press との交渉まとまる。それにあわせ利用条件を変更。
2000/5/28: 峰 雅紀さんによるご指摘を受けて誤訳を修正。ありがとうございます。
2000/6/18: 山形さんのご協力により、 許可がおりたので利用条件を明記。 2000/7/23: Gallup poll の部分を修正。
2001/1/23: 加藤 (katokt) さんの精密かつ徹底したご指摘により、多くの訳を修正。感謝!
2001/3/15: 山口兼太郎さんのご指摘により「Bonnet」を修正。
2001/3/24: Linux MLD 「Linux で科学しよう」 gTuring のコーナーからリンクされる。

プロジェクト杉田玄白 協賛テキスト
日本語訳: 新山 祐介 (yusuke @ cs . nyu . edu)

訳者より: この論文は 1950年に英国の心理学会誌 MIND, vol. LIX, no. 236 の 433-60ページに掲載されたものである。文中にはページ数による引用が あり、HTML ファイルでもそれぞれのページの始まりを示してある。 Lynx でも見れるように上付き文字 (ab) は a^b、 下付き文字 (ab) は a_b で表した。 誤訳やわかりにくい箇所についてご指摘いただければ幸いです。


{p. 433}

1. 模倣ゲーム

次のような問いについて考えてみよう:

「機械は考えることができるだろうか?」

まず始めに「機械」とか「考える」という用語の意味を定義しないと いけない。この定義は、なるべくその言葉のふつうの使いかたを 反映するように作られてしまうかもしれない。 しかしこういった態度は危険だ。 もし「機械」や「考える」という単語の意味がそれらの一般的な用法を 調べて明らかになるのなら、つぎのような結論になってしまうのは 避けられないからだ。つまり、「機械は考えることができるか」 という問いの意味とそれに対する答えは、ギャラップ社の世論調査のような 統計的調査によって求められるべきだ、ということになる。 そんなのはバカらしい。ここで私はこんな定義をするかわりに、 この問いを別の、これとかなり似てはいるがそれほど曖昧でない 言葉で言いかえてみよう。

この問いの新しい形式は私たちが「模倣ゲーム」と呼ぶゲームによって 表わされる。これは男性 (A) と女性 (B)、および性別は問わない一人の質問者 (C) の 3人によって行われる。まず質問者はほかの 2人とは別の部屋に入る。 質問者にとってのこのゲームの目的は、この 2人のうちどちらが男性で どちらが女性かを言い当てることだ。質問者は彼らを X と Y という名前で 呼び、ゲームの終わりに「X が A で、 Y が B」あるいは 「X が B で、 Y が A」のどちらなのか当てるのである。 質問者は A と B に次のような質問をすることが許されている:

C: X さんの髪の長さを教えてもらえますか?

{p. 434}
ここで、実は X が A であるとしよう。すると A は答えなければならない。 このゲームでの A の目的は、C が間違った判断をするようしむけることである。 彼の答は、たとえば次のようなものになる:

「私の髪はみじかくて、長いところでも 9インチぐらいです」

声の高さで質問者に悟られてしまわないように、答は紙に書くのがよい。 タイプライターによってタイプすればさらによい。 理想的な環境は 2つの部屋をテレタイプでつないで通信させることだ。 あるいは質問と回答を、仲介者を通してくりかえすようにしてもよい。 このゲームでの B の目的は、質問者を助けることだ。彼女のもっともよい 戦略は、おそらく本当のことを正直に答えることだろう。 彼女は「女のほうは私です、彼の言うことを聞いてはいけません!」などと つけ加えることもできるが、これは何の役にも立たない。なぜなら 男の方も同じようなことが言えるからだ。

ではここでひとつ問いを立ててみよう。 「このゲームで機械が A の役をうけもったら何が起こるだろうか?」 こうすると、ちょうど男性と女性によって このゲームが行われているときと同じくらい、質問者は判断を 誤るだろうか? この問いは私たちの最初の問い 「機械は考えることができるか」を置き換えるものになる。

2. 新しい問いに関する議論

「この新しい問いの答えはなんなのかという疑問はあります、 けれども、そもそもこの疑問は検討に値するのでしょうか?」と 尋ねる人もいるかもしれない。われわれはこれ以上の堂々巡りを避けるためにも、 この質問の後半部分をあっさり片づけておくことにしよう。

この新しい問いは、人間の身体的な能力と知的な能力のあいだにきわめて 明確な一線を引くという利点をそなえている。人間の肌とまったく 区別できない物質を作れると主張する化学者や技術者は、今のところいない。 いずれはこれが実現するということもありうるが、たとえ 実現したとしても、機械にそのような人工皮膚をかぶせたところで、 「考える機械」をより人間らしくするのにはほとんど役に立たない。 だって質問者は相手を見ることも触ることもできず、 その声を聴くこともできないのだから。私たちの質問は このような状況における事実を反映したものになっている。 以下の例でも、私たちの判断基準の利点をいくつか見ることができる:

Q: フォース橋 (Forth Bridge) がテーマのソネットを書いてください。
A: それは勘弁してください。私は詩なぞ書けませんので。
Q: 34957 と 70764 を足してください。
A: (約30秒の沈黙をおいて答える) 105621。
Q: チェスはやりますか?
A: ええ。
Q: 私のキングは K1 にあり、それ以外に駒はありません。 あなたの駒はキングが K6 、ルークが R1 にあるだけです。 あなたの番ならどう打ちますか?
A: (15秒の沈黙をおいて) R-R8 で、チェックメイト。

{p. 435}
この問答形式というやり方は、私たちが手に入れたい人間の能力の ほとんど全ての側面をとらえるのにふさわしいと思う。 私たちは機械が美人コンテストで 優勝できなくても別にそれをとがめるつもりはないし、人間が飛行機と 競争して負けたとしてもそれをとがめようとは思わない。 私たちのゲームの状況においては、こうした能力の欠如は問題ではないのだ。 質問される側の人間は自慢することができるし、彼らの魅力やら腕力やら 勇猛さを吹聴することもできる。もしそのことを言う価値があると考えるならばだが。 しかし、質問者が実際に彼らにそれを見せてもらうことはできないのである。

もしかするとこのゲームは、機械にとって勝算が大きすぎるという理由で 批判をうけるかもしれない。人間が機械のふりをしようとすれば、 みじめな結果になるのは目に見えている。人間は計算の遅さと 不正確さによって、たちまち化けの皮をはがされてしまうだろう。たしかに 機械は、思考としか言いようのない何事かを成し遂げるかもしれないが、 それは人間のやっていることとは全く異なったものではないのか? -- これは非常に強い反論だが、私たちはすくなくとも次のようにはいえる。 とにかく、模倣ゲームが満足にこなせるような機械を一台でも作ることが できれば、こんな反論に悩まされる必要もない、と。

「模倣ゲーム」をするさいの機械側のいちばんの戦略は、 人間のふるまいをまねる以外のことではないのか、と主張する人も いるだろう。それはありうる。だが、私はこの類のことはあまり 効果がないと思っている。どちらにせよ、 ここでは模倣ゲームの理論を研究しようなどという 意図はまったくないし、いちばんいい戦略は人間が返すであろう答を 機械が返そうとすることである、と仮定しておこう。

{p. 436}

3. 模倣ゲームをする機械

私たちが 1. 節で述べた問題は「機械」という語で何を意味するかが まだ特定されていないため、はっきりしたものにはなっていない。 この機械をつくるためには どんな技術でも使ってよいとするのがもっともらしいように 思える。また私たちは次のようなことも認めたい。1人あるいは複数の技術者が この機械を作るのだろうが、その動作方法は必ずしも製作者によって満足に 記述されていなくともかまわないと。なぜなら彼らはその大部分において実験的な 方法を使うだろうからだ。最後に、この機械とふつうに生まれた人間とは 区別できるようにしたい。 これら 3つの条件を満たすような機械の定義を作りだすことは難しい。 たとえばこれをつくる技術者のチームはどちらか一方の性別だけで 構成することにする、というのはどうだろうか? これでは本当に十分とはいえないだろう。なぜなら おそらく人間の、たとえば皮膚の細胞ひとつからでも、完全な個人にまで 培養することができるだろうからだ。たとえそれができたとしても、それは すばらしい生物工学の勝利ではあるだろうが、それをさして私たちは 「考える機械を作った」実例とは言わない。すると どんな技術でも使ってよいというルールは捨てたほうがよいかもしれない。 私たちの「考える機械」に対する現在の興味は、ある特定の種類の機械、 いわゆる「電気計算機」(訳注 1) または「デジタル計算機」と呼ばれる 機械によって生まれていることを考えると、先のルールを捨てることには さほど抵抗がなくなる。このことから私たちはこのゲームに参加できるのは デジタル計算機のみであるとしよう。

この制限は一見したところ非常に重大なもののように見える。 しかし私はこれがそれほど重大ではないことを示したい。そのために まず、これらの計算機の性質と特徴に関する簡単な説明を しておく必要がある。

私たちの「考える」ということの定義と同様に、機械とは デジタル計算機であるという定義についても、 もしデジタル計算機が模倣ゲームにおいていい結果を出すことができないと 判明した場合 (これは私の確信に反するが) にのみ 不適切であるということが言えるかもしれない。

世の中にはすでに多くのデジタル計算機が動作している。だから読者は 「なぜさっさと実験しないのか? ゲームの条件を整えるのは簡単だし、 質問者だって何人でも使える。どれくらい正しい答えが得られるのか 統計を使って示すことだってできるのに」と思われるかもしれない。 おおざっぱな答はこうである。なぜなら私たちはすべての計算機が このゲームをこなせるかどうかを考えているのではないし、 現在利用できる計算機にそれがこなせるかどうかを考えているのでも ないからである。私たちが知りたいのは、そういったことが うまくこなせるような架空の計算機が存在しうるかどうか、ということ なのだ。しかしこれはあくまでおおざっぱな答である。この質問は あとで別の視点から眺めてみよう。

4. デジタル計算機

デジタル計算機の背後にある考え方はつぎのように説明できるかもしれない。 つまりデジタル計算機は、人間計算機が実行可能などんな操作でも 実行できるように作られているのである。ここでの 人間計算機は決まりきったやりかたに従うことにする。つまり彼は どんな些細なことでもこれに違反してはならない。これらの規則は 本に書かれていると仮定してもいい。この本は彼が新しい仕事を 与えられるたびに変わるとする。また彼は計算用紙を無制限に与えられる。 また彼は掛け算や足し算を「卓上機械」を使って行うことも 許されるかもしれないが、このことはべつに重要でない。

{p. 437}
しかし上の説明を定義として使うと私たちは循環論法に 陥ってしまう危険性がある。これを避けるため、望みの結果が得られる アウトラインを提示することにしよう。 デジタル計算機はふつう次の 3つの部分からなると考えられている (訳注 2):

  1. 記憶装置
  2. 実行ユニット
  3. 制御装置

記憶装置は情報を蓄える場所であり、人間計算機にとっての紙に相当する。 それが計算用紙であれ規則が書かれた本であれ、とにかく紙にあたるものだ。 人間計算機が計算を頭の中で行う場合は、彼の記憶も記憶装置の 一部にあたる。

実行ユニットは計算の過程におけるいろいろな個別の操作を 行う部分である。個別の操作がどういうものであるかは、機械によって 異なる。ふつうはかなり複雑な操作、たとえば「3540675445 と 7076345687 を 掛けて」などもできるかもしれず、また逆に「0 を書いて」などのごく 単純な操作しかできない機械もある。

先に説明した「規則の本」は計算機にとっては記憶装置の一部として 与えられる。これは「命令表」と呼ばれる。制御装置はこれらの命令が 正しい順序できちんと実行されるようにする。制御装置はこのことを必ず 守らせるように作られている。

記憶装置の中の情報はふつう小さな断片に分けられている。 たとえばある機械ではひとつの「かたまり」が 10桁の数字からなる。数値は なんらかの体系だった方法によって記憶装置の一部分に割り当てられる。 ここにはさまざまな情報のかたまりが入る。 ありがちな命令はたとえばこのようなものだ:

「6809番地に格納されている数値を 4302番地の数値に足して、 それをあとのほうの番地に書き戻しなさい」

もちろん、この命令は計算機の中でこのように日本語で書かれているわけでは ない。たとえば 6809430217 のような形で記号化されていたりする。 ここでいう 17 は、さまざまな実行可能な操作の中から、 2つの数字に対してどの操作が行われるべきかを 示している。つまりこの場合の操作は上の文のようなものだ。便利なことに この命令は 10桁の数字でできているため、1つの情報のかたまりで構成できる。 命令はふつう格納されている順番で実行されるように なっているが、ときにはこんな命令に出会うかもしれない:

「これ以降は 5606番地にある命令から実行を続けなさい」

あるいは

「もし 4505番地に 0 があれば、 そのときは 6707番地にある命令から実行を続けなさい。 そうでなければこのまま次の命令に行きなさい」

この後者のタイプの命令は非常に重要である。なぜならこれによってある 一連の操作を、一定の条件が成り立つまで何度でも繰り返すことができる からだ。それもその度に新しい命令に従うのではなく、同じものを 何度も使うのである。 日常的なたとえでは、たとえば母親がトミーに、毎朝学校へ行く途中に 靴の修理屋へ寄って、母親の靴の修理が済んでいるかどうかを 見てきてほしいとする。母親は毎朝毎朝、あらためてトミーにそのことを 頼むこともできるが、メモを残しておくという手もある。 トミーが毎朝学校へ行くときに通るホールにメモを貼り付けておくの である。メモには修理屋に寄るようにと、加えて靴を持って 帰ってきたときはこのメモを破り捨てるようにと書いておくかもしれない。

読者にはつぎのことを理解してほしい。つまりデジタル計算機は これまで記述した原理に基づいて作ることができるものであり、 また実際作られてきたのである。 そして実はこれらの機械は人間計算機の行動を非常にうまく 模倣しうるものなのだ。

この人間計算機が使うというルールの本はあくまで架空の話である。 実際の人間計算機は、彼がなにをすべきか本当に知っている。誰かが 機械に、人間計算機の複雑な操作からなるふるまいを真似させようとした 場合、彼にそれをどうやっているか聞き出し、その答えを命令表の形式に 変換することになる。命令表をつくることはふつう「プログラミング」と 呼ばれる。「ある機械に操作 A の実行をプログラムする」とは、その機械が A をするような正しい命令表を与えることである。

{p. 438}
デジタル計算機の変種でもおもしろいのは「ランダムな素子つきのデジタル計算機」 である。これはその中でサイコロを投げるか、あるいはそれに相当する電気的な プロセスを起こす命令を実行できる。このような命令はたとえば 「サイコロを投げ、出た目の値を 1000番地に格納せよ」といったものになる。 このような機械はときに自由意志 (私は自分自身には使わない言葉だが) を 持っているように見える。ある機械がランダムな素子をもっているかどうかは、 ふつう一見しただけではわからない。似たような結果は 円周率に現れる数字を見ながら結果を生成する機器によっても生じるからだ。

{p. 439}
現実のデジタル計算機は、有限な容量の記憶装置しか持ちえないと いえるだろう。 無限の容量をもつ計算機を考えることは理論的にそれほどむずかしくない。 もちろん一回に使われるのは有限の部分だけである。 ただ私たちは有限量の記憶装置を作るのが可能であるのと同様に、 いくらでも記憶容量をつけくわえられると仮定することも可能である。 そのような計算機はとくに理論的に興味深いもので、 無限容量の計算機と呼ばれる。

デジタル計算機の概念は古くからある。1828年から 39年まで ケンブリッジのルーカス記念数学教授だったチャールズ・バベッジ (Charles Babbage) はそのような 機械を考案し“解析機関 (Analytical Engine)”と名づけたが、 これは結局完成しなかった。 バベッジのアイデアは核心をついたものだったにもかかわらず、当時は 彼の機械はそのような魅力的な見通しを持てなかったのである。 その当時利用できたであろうスピードは明らかに人間計算機よりも 速かっただろうが、近代的な機械の中ではもっとも遅いもののひとつ だったマンチェスターの工業機械 (the Manchester machine) より 100倍ほども遅かっただろうから。記憶装置は純粋に機械的なものに ならざるを得ず、車輪とカードを使っていた。

バベッジの解析機関がすべて機械的なものだったという事実は、 私たちを見た目だけの類似から解放してくれるかもしれない。 現代のデジタル計算機は電気的なものであり、神経系統もまた 電気的なものだ。しかし大事な点は次のようなことである。 バベッジの機械は電気的ではなかった。そしてすべてのデジタル計算機が ある意味では等価であることを考えると、電気の使用は理論的に重要では ないことがわかる。もちろん高速な信号処理が要求されるところではふつう 電気が使われるため、これらの間のつながりにはさほど驚くこともない。 神経系統では化学的な現象が電気的なものと少なくとも同じくらい重要で ある。ある計算機では記憶装置はおもに音である。だから電気を使うという 特徴はまったく表面的な類似でしかない。このような類似性を 見つけるためには、私たちはその機能の数学的なアナロジーに 目を向ける必要がある。

{p. 440}

5. デジタル計算機の万能性 (universality)

前節で説明したデジタル計算機は “離散状態機械” に分類されるだろう。 これはある定まった状態からべつの状態へとカッチンカッチンと 跳びとびに移る機械のことである。 それぞれの状態は十分に異なっているので、それらを混同する可能性は 無視できる。厳密に言えばこのような機械はなく、現実には どんなものも連続して動いている。しかしこのような離散状態で動くと考えたほうが 都合がいい機械もたくさんある。電灯のスイッチを考えてみると、 これは完全にオンか、あるいは完全にオフかのどちらかの状態しか とり得ないと考えたほうが都合がいい。もちろんどっちつかずの状態は あるだろうが、たいていの場合私たちはそんなことは気にとめない。 離散状態機械の例として、1秒間に120°ずつカッチンカッチンと回っては止まる 車輪を考えてみよう。これは外からレバーを操作することで止められる。 これに加えて車輪のある位置を照らすランプがあるとする。 この機械は概念上はつぎのように説明できる。機械はその内部状態として、 q_1, q_2 あるいは q_3 のどれかをとりうる。入力信号として i_0 か i_1 のどちらかが与えられる (レバーの位置)。ある時点における 内部状態はその直前の状態と入力信号から、次の表によって求められる:

        | 直前の状態
入力    | q_1 ... q_2 ... q_3
--------+-------------------
i_0     | q_2 ... q_3 ... q_1
i_1     | q_1 ... q_2 ... q_3

出力信号は内部状態を反映する、外から見える唯一のものである。これは 次のような表によって求められる:

状態    | q_1 ... q_2 ... q_3
出力    | o_0 ... o_0 ... o_1

これは典型的な離散状態機械である。有限の数の状態しか とりえないとすれば、これらは上のような表によって記述される。

初期状態と入力信号が与えられれば、以降の状態をすべて予測することが できそうである。これはある瞬間の宇宙の全粒子の完璧な状態、 つまり位置と速度がわかればそれ以降の状態はすべて予測可能である というラプラスの予言を思わせる。しかしいま考えているこの予言は ラプラスのものよりいくぶん予測しやすい。「全宇宙」という システムは、初期条件の非常に小さな誤りでも後になって絶大な効果を もたらしうる。ひとつの電子を何十億分の 1センチずらしただけで、 1年後にある人が雪崩で死ぬか生きるか違ってくるかもしれない。 私たちが「離散状態機械」と呼ぶ機械の大事な点は、このような現象が 起こらないということである。この理想化された機械のかわりに 現実の物理的な機械を考えてみても、ある瞬間の状態のじゅうぶん正確な 知識がわかっていれば、それ以降の正確な知識が何段階あとのもの であってもじゅうぶんにわかるのだ。

{p. 441}
すでに述べたようにデジタル計算機は離散状態機械に分類される。 しかしそのような機械がとりうる状態の数はふつう非常に大きい。 たとえばマンチェスターで動いている機械のとりうる状態の数は およそ 2^165000 であって、これは 10^50000 に相当する。 この数をさきほどのカッチンカッチンいう 3つの状態をもつ車輪と比べて みよう。なぜこんなにも状態の数が莫大になるかを考えるのは、 そうむずかしいことではない。この計算機は、ちょうど人間計算機が使う紙に あたる記憶装置を含んでいる。この記憶装置には紙に書かれるどんな記号の 組み合わせでも格納できるにちがいない。簡単のためここでは数字の 0 〜 9 のみが記号として使われるとしよう。文字を手で書くことによる 違いは無視することにする。コンピュータには 100枚の紙が 与えられているとして、1枚の紙は 50行 30桁まで書き込めるとする。 すると状態の数は 10^(100×50×30) になり、これはつまり 10^150000 である。 これはおよそ 3つのマンチェスター機械の状態数をあわせたものに匹敵する。 状態数を 2 の対数で表したものは通常「記憶容量」と呼ばれる。 マンチェスター機械は約 165000 の記憶容量を持っており、先の例で あげた私たちの車輪機械はおよそ 1.6 の記憶容量を持つことになる。 2つの機械を合わさると、合わせたものの容量はそれぞれの容量を足した 値になる。するとたとえば次のようなこともいえる。 「このマンチェスター機械には容量 2560 の磁気トラック 64本と 容量 1280 の電子管 8本がある。その他の記憶装置には およそ 300 の容量があり、全体として 174380 の容量をもつ」

離散状態機械をあらわす表があれば、それが何をするかは予測できる。 この計算がデジタル計算機によって実行できないと考える理由はない。 これを十分高速にこなすことができればデジタル計算機はどんな 離散状態機械のふるまいでも真似できてしまうだろう。この場合、模倣ゲームは 対象の機械 (B) とそれを真似するデジタル計算機 (A) によって行われ、 質問者はこれらを区別することができないだろう。 もちろんデジタル計算機は十分な記憶容量と実行速度を もちあわせていなければならないし、それは真似しようとする 機械にあわせてつねにプログラムし直される必要がある。

このデジタル計算機の特殊な能力、どんな離散状態機械をも 真似できてしまうという能力によって、これは「万能の (universal)」 機械であるということができる。このような能力をもった 機械の存在から次のような重要な結論がひきだせる。実行速度を別とすれば、 いろいろな計算を行うためにいちいち新しい機械を設計する必要は ない。個々のケースに対して適切にプログラムされていれば、これらはすべて 一台のデジタル計算機によって実行することができるのだ。以上のことから すべてのデジタル計算機はある意味で等価だということがわかる。

さてここでもう一度 3. 節の終わりで紹介した点を考えてみよう。 おずおずと提出された疑問「機械は考えることができるか?」は、 次の疑問「模倣ゲームを上手にこなす想像上のデジタル計算機は存在しうるか?」 によっておきかえられるべきだった。これの見た目をもっと一般的にするなら、 「離散状態機械は存在しうるか?」とすべきだろうか。しかし包括的な観点からは、 これら 3つの疑問はどれも次のものと等価である。 「ある特定のデジタル計算機 C を考えよう。かりにこの計算機に十分な記憶容量を つけ、実行速度をちゃんと増やして、さらに適切なプログラムも 与えたとすると、C は模倣ゲームにおいて人間 B を相手にしたときの A の 役割を満足にこなすことができるだろうか?」

6. 反対意見

さて、これで地面はきれいにならされたので、私たちの質問 「機械は考えることができるか?」あるいは前節の終わりで 挙げたその亜種に進む準備がととのった。この問題のもともとの 形を完全に捨てさることはできない。なぜなら代案の適切さによって 意見はことなるだろうし、私たちは少なくともこれに関することのうち 何が言われるかに耳を傾けなければならないからだ。

この問題については最初に私自身の信念を説明するのが読者にとって ことを簡単にするだろう。最初にこの質問のより正確な形を考えてみよう。 私はつぎのようなことを確信している。あと 50年ほどのあいだに 10^9 ほどの記憶容量をもったコンピュータをプログラムすることが 可能になり、それに模倣ゲームを上手にやらせることができて、 平均的な質問者が 5分間やりとりしても 70パーセント以上の 確率で正しい判断はできなくなるだろうと。そしてそのころには最初の疑問 「機械は考えることができるか?」は、あまりに無意味であって 議論する価値などなくなっているだろう。いずれにせよ私は今世紀の終わりには 語の用法や教育ある人物の一般的な意見が大きく変わり、とくに反論される こともなく機械が考えていると言うことができるだろうと思っている。 また、これらの確信がひた隠しにされてもまったく価値のある 目的は生じないと思う。よく好んで使われる見方として、 科学者は動かしがたい事実から動かしがたい事実へと 容赦なく進み、決して証明されていない憶測には従わない というものがあるが、これはまったくの間違いだ。 事実として証明されたものと憶測がはっきり区別されているなら どんな害も生まれない。憶測は有用な研究の潮流を生むため、 たいへんな重要性をもつのである。

{p. 443}
では私に反対する意見をみていこう。

(1) 神学的な反論:
「思考は人間の永遠なる魂のなせる業である。神はすべての男女に 永遠の魂を与えたもうたが、動物や機械には与えていない。 よって動物も機械も考えることはできない」

この文章のどんな部分も受け入れることはできないが、神学的な用語で 答えてみることにする。この議論は、もし動物が人間に分類されていると すればもっと説得力をもつことがわかる。なぜなら私の考えでは、典型的な 生物と無生物の間には、人と動物の間よりもはるかに大きな開きがあるようだから。 宗教的に正統な世界観はどれも、 それがどのように他の信仰集団のメンバーに 見られているかを考えてみればはっきりする。キリスト教徒は、女性は 魂をもたないとするイスラム教徒をどう見ているのだろう? しかしこの点は おいておくとして、もとの議論に戻ろう。私にとっては 上で引用された議論は全能者の能力に対する重大な制限を暗に含んでいるように 思える。たしかに全能者でもできないことがあるのは認められている。たとえば 1つのものを 2つのものと等しくすることなどであるが (原註 1)、では 私たちは彼が象に魂を与える自由がないなどと信じるべきだろうか。彼が それを適当だと思っているのに? 私たちはこう予想するかもしれない。彼が その能力を試すには、突然変異によってこの魂に必要なだけの仕事をする、 適度に発達した脳をもった象をつくる以外にないのだと。 これとまったく同じ議論は機械の場合についてもあてはまる。しかし この場合は「のみこむ」のが難しいから、すこし違っているように 思えるかもしれない。でも結局のところそれは全能者が魂を与える環境を 適切かどうか判断するということは考えにくい、と言っているにすぎない。 この問題の環境については、以下で議論する。このような機械を 作ろうとしても私たちが全能者の魂を作るという能力を不当に横取りすることには ならない。子供を生んだからといってその能力を横取りしたことには ならないのと同じである。むしろどちらの場合にも、私たちは その全能者の作る魂が住まう場所をうみだす、彼の意思の道具なのである。

{p. 444}
けれども、これはあくまで表面的な話だ。私は過去にどんな神学的な 議論が支持されていようと、まったく感心できない。そのような議論は しばしば不十分なものであることが過去にわかっている。 ガリレオの時代、聖書に書かれている「そして太陽はまだ 登ったままだった…そしてほとんど一日じゅう下がらないようにしていた」 (ヨシュア記, 第10章 13節) とか「彼は地球の基礎を寝かせ、 それは微動だにしなかった」 (詩篇, 第105章 5節) はコペルニクス理論に対する正当な否定だった。 私たちの現在の知識からみると、このような議論は無駄だったようだ。 これらの知識がない当時では、この議論はまったく違った印象を 与えていたのである。

(2) 「知らんぷり」の反論:
「機械が考えるという結論は怖すぎるので、そんなことは ありえないと信じようじゃないか」

この議論は上に示したようなあからさまな形ではほとんど言われない。 しかしこの考えはこのようなことを少しでも考えたことのある人たちの多くに 影響を与えている。私たち人類は、なんらかの巧妙な特徴によって他の 創造物より優れていると思いたいらしい。絶対に優れていると 証明されれば、たしかにそれはいいだろう。なぜならそのとき、 もはや私たちの監督者としての地位を失う危険はまったくないの だから。神学的な議論に人気があるのは、あきらかにこの感覚と 関係している。知的な人々の場合は思考する能力というものを他人よりも 高く評価しているためか、この傾向がさらにつよくなりがちで、 この能力の優位性という彼らの信念を強固なものにしたがる。

私はこの手の議論が、それほど真剣に論駁する必要のあるものとは 思わない。この場合はむしろ慰めが適しているようだ: おそらく これは魂の輪廻によって捜し求められるだろうと。

{p. 445}
(3) 数学的な反論:
離散状態機械の能力には限界があるということを示すのに 使われる数学的な論理の帰結は数多くある。最も有名なものは ゲーデル (Gödel) の定理として知られており (原註 2)、これは十分に強力なシステム ではどれも、そのシステムが自己矛盾している可能性をもたない限り、 その範囲内では証明することも否定することもできない 言明を公式化できる、ということを示したものである (訳注 3)。 これといくつかの点で似ているのが チャーチ、クリーネ、ロッサー およびチューリング (Church, Kleene, Rosser and Turing) らによる仕事である。他の定理がどちらかといえば間接的な 議論なのに対してこちらは直接機械をその対象にしているので、 考えるのにより都合がよい。たとえばもしゲーデルの定理を使うとしたら、 私たちは形式論理をなんらかの方法で機械のように 扱わねばならないし、機械をなんらかの方法で形式論理のように 扱わねばならない。しかしもう一方の定理では、基本的には無限容量をもつ デジタル計算機を一種の機械として扱っている。これは そのような機械には実行できないある事柄が存在することを証明している。 もしこれが模倣ゲームの疑問に答えるまでに格上げされれば、たとえ機械に どんな長い時間を与えても、それが間違った答えを出すことも答えに 失敗することも、どちらもできない質問が存在することになる。 もちろんそのような質問はたくさんあるのかもしれず、ある機械が 答えられなくても、別の機械なら満足に答えられるということもありうる。 当然ながらいまここで仮定している質問は「ピカソについてどう思いますか?」 といったものよりも、「はい」か「いいえ」かで答えるたぐいのものが ふさわしい。これらの機械が必ず失敗するような質問とは以下のような タイプのものである。「次のような機械について考えてください … この機械はどんな質問にも『はい』と答えるでしょうか?」ここで 「…」の部分にはある機械についての説明が入る。この説明は 5. 節でみたような形になっている。説明されている機械が 質問を受ける機械とかなり単純なある関係をなす場合、 この回答は間違っているか、あるいはいつまでたっても答えられないかの どちらかになるだろう。これは数学的な結果である。つまり 人間にとっては平気なのに、機械にはできないことがあることを 証明したことになる。

この議論に対する簡単な答えはこうである。 たとえあらゆる機械の能力の制限を示せたとしても、 ただ人間はその制限を受けないということが述べられているだけで、 その証明に値するようなものは何もない。しかし私はこの見方が そう簡単に粉砕できるとは思わない。私たちは これらの機械がそれに見合った致命的な質問をされ、 定まった答えを与えているときはいつでも、それが必ず 間違っていることを知っている。そしてこれが 私たちにある種の優越感を与えるのだ。この感覚は幻想だろうか? いや、本物であることはまったく疑いがない。しかし私はこれが そんなに重要な問題だとは思わない。私たちもまた、自分自身に対する 質問には間違った答えを出す。しかも私たちの優越感は、この小さな 勝利をものにできる機械を相手にした場合にのみ得ることができるものだ。 すべての機械に同時に勝てる問題などないだろう。つまり 人間は与えられたどんな機械よりも賢いかもしれないが、 またもや他の機械のほうがもっと賢いかもしれない、といったぐあいだ。

私が思うに、数学的な議論を支持する人はそのほとんどが 模倣ゲームを議論の土台として使うことには同意してくれる。 先の 2つの反論を信じている人はおそらくどんな基準にも 興味を示すことはないだろう。

(4) 意識からの議論:
この議論は ジェファーソン教授 (Professor Jefferson)の Lister Oration for 1949 でたいへんうまく表現されているので、これを引用する。

{p. 446}

「偶然による記号の羅列によってではなく、 機械がその思考や感情のおもむくままにソネットを書いたり コンチェルトを作曲したりするまで、 我々は機械が脳と同等だと認めることはできない。 機械は書くだけでなく、それが自分の書いたものであるということを 知っていなければならない。 どんなメカニズムも (あるいはたんなる人工的な信号でも 簡単な装置でも) その成功を喜ぶことはできないし、その真空管の ヒューズがとんで悲しむことも、お世辞にのることも、 失敗してみじめな気持ちになることも、セックスにうっとりすることも、 望みのものが手に入らないからといって怒ったり落胆したりすることも、ない」

この議論は私たちのテストの正当性を拒否しているように見える。 これの最も極端な形に従えば、機械が考えていると人が確信するのは 唯一、機械になって、自分が考えているということを感じること である。そうすれば人はこれらの感覚を世界に向けて説明することができる だろうが、もちろん誰もそれを気にとめることを正当化されないのだ。 同様に、この見方にしたがえばある人間が考えているということを 知るためには、その特定の人になってみるしか方法がないことになる。 実際、これは唯我論の観点である。いちばん論理的な見方かもしれないが、 これではアイデアの伝達がむずかしい。A は「A は考え、 B は 考えていない」と信じるのに対し、B は「B は考え、A は 考えていない」と信じる。この観点にもとづいた論争をつづけるよりも、 誰もが考えているという礼儀正しい習慣をもつほうがまともだ。

私にはジェファーソン教授がこの極端かつ唯我論的な見方をとろうと しているようには思えない。たぶん彼は模倣ゲームをテストとして 受けいれることに対してはまったく異論がないだろう。このゲーム (プレイヤー B がいない) は、ある人が本当になにかを理解しているのか、 はたまた「オウム返し的学習」をしているにすぎないのかを確かめるのに、 口頭試問 という名前で実際によく使われている。 つぎのような 口頭試問 の一部を見てみよう:

質問者: あなたのソネットで最初の行に「汝を夏の日にたとえよう」 とありますが、「春の日」のほうがよくありませんか?
被験者: それじゃ韻を踏まないでしょう。
質問者: 「冬の日」ならどうでしょう。ちゃんと韻を踏みます。
被験者: はい、けど誰も冬の日にたとえられたくはないでしょう。
質問者: ピクウィック氏は、 クリスマスを思い起こさせると言えるんじゃないでしょうか?
被験者: あるいは。
質問者: じゃあクリスマスは冬の日ですし、私はピクウィック氏がこのたとえを いやがるとは思いませんが。
被験者: あなたがまじめにやっているとは思えませんね。冬の日といったら 人はふつうクリスマスみたいな特別な日のことじゃなくて、 よくある冬の日のことを言っているんですよ。

{p. 447}
などなど。もしソネットを書く機械がこのような 口頭試問 に 答えることができたら、ジェファーソン教授はなんと言うだろう? 彼がこの機械を、質問に答える「ただの人工シグナル」とみなすかどうかは わからない。しかし、もしこれらの答えが満足のいくものであり、 上の対話のように続くとすれば、彼がこれを「簡単な仕組み」とみなす ことはないだろうと思う。私が思うに、彼は誰かが ソネットを読み上げたレコードを適当に切り換えるような、 そんな装置をふくむ機械を想定しているのだろう。

要するに意識からの議論を支持するほとんどの人は、 唯我論者に追いやるよりもそれを捨てさることによって説得できそうだ。 そうすれば彼らはたぶん私たちのテストをよろこんで受け入れるだろう。

私はべつに、意識には神秘的なところなど何もないということを言おうとしている のではない。たとえば、そこにはちょっとしたパラドックスがあって、 それらはそれを局所化しようという試みとつながっている。 しかし私はこの論文で扱われている疑問が解かれる前に、 これらの意識に関する謎が必ずしも解かれなければらないとは思わない。

(5) さまざまな能力の欠如からの議論:
これらの議論は次のような形をとっている。 「これまでに言われてきたすべてのことができる機械は、 作れるとしておこう。けれども X をする機械は決して作れない だろう」 ここでさまざまな要素 X がこれに関連して挙げられている。 抜き出してみると:

親切である、機知に富んでいる、美しい、友好的などであること (p. 448)、 独創力やユーモアのセンスを持っていること、正しいものと間違ったものを 見分けたり、間違いをすること (p. 448)、 恋におちたり、ストロベリー クリームを味わったりすること (p. 448)、 誰かを恋に引きこむこと、経験から学ぶこと (p. 456)、 単語を正しく使うこと、 自分自身について考えること (p. 449)、 人間と同じくらい多様な ふるまいをすること、なにか本当に新しいことをすること (p. 450)。 (これらの能力の欠如は上に示したページで特に詳しく論じられている)

{p. 448}
ふつうはこれらの主張は支持されていない。私は これらがほとんど科学的な帰結にその基礎を置いていると 信じている。人間はその生涯のうち何千という機械類を見てきている。 それらの機械から、人はいくつもの一般的な結論をひきだす。 機械は醜い、どれも非常に限定された目的で作られている、すこしでも 違ったことに使おうとすると使えない、それらのふるまいの多様性は どんなものであれ非常に少ない、などなど。とうぜん人は一般的に、 これらが機械につきものの要素だと結論する。 これらの限界の多くは、ほとんどの機械の記憶容量が非常に少ないことと 関係している (私はこの記憶容量の概念を、離散状態機械以外の 機械にもなんらかの形で拡張できると仮定している。 この議論では数学的な厳密さが要求されるわけでないので、厳密な 定義はどうでもよい)。いまから数年まえは、デジタル計算機について ほとんど何も聞かなかったので、もし自分たちのもつ属性について、 それらを構築する方法を述べることなしに言及しても デジタル計算機に関する疑念を引きだしてくることができた。 それはおそらく科学的な帰結と同様な法則の適用によるものだろう。 もちろんこれらの法則の適用はほとんど無意識的なものだ。 やけどをした子供が火をこわがり、恐怖のためにそれを避けようとする のを見て、私は彼が科学的な推論を用いていると言わねばならない (もちろん彼のふるまいは他にもたくさんの仕方で説明できるだろうが)。 ヒトの機能と慣習が、科学的な推論をするために非常に適している ようには見えない。信頼できる結果を得るためには、膨大な 空間と時間を探索しなくてはならない (訳注 4)。さもなければ私たちは (ほとんどの英国の子供がそうであるように) すべての人間が英語を 話すから、フランス語を学ぶのはばからしいと思い込んでしまうかも しれない。

けれども上に挙げられている多くの能力の欠如には、特に 注意すべき点がある。ストロベリークリームを味わうことが できないという欠点は、ばかにしているように思われるかもしれない。 たぶん機械は、このおいしい食べ物を楽しむことができるかもしれないが、 そういうことをしようとする試みはどれも間抜けだ。 ここで重要なことは、この能力の欠如が別のたぐいの能力の欠如にも つながっているということである。 たとえば 白人と白人や、黒人と黒人の間の 友情などのように、 機械と人間との間の友情もこれによって難しくなる。

{p. 449}
「機械は間違いをおかすことができない」という主張も変な ものだ。「機械がそれ以上ひどくなったことなんかあるかい?」と言い返す 人もいるだろうが、私たちはより同情的な態度をとることに しよう。そしてその本当の意味は何かを考えてみることにする。 この批判は模倣ゲームで説明できると思う。質問者は単にいくつかの 数学の問題をさせることで、人間と機械を区別できるとされている。 機械は死ぬほど正確な答えを出すので、すぐに区別がつくという。 これに対する回答は簡単である。(模倣ゲームをするようにプログラム された) 機械は、数学的な問題に対して正しい答えを出すようには つくられないだろう。この機械は質問者を混乱させるよう計算された やり方で、注意ぶかく間違いをしのびこませるだろう。機械的な 欠陥は、どんな種類の間違いが算術で起こるのかについての 適切でない決定を通してその姿を現すだろう。しかし私たちは これについて深くたち入る余裕はない。私にはこの批判は 2種類の誤りの混同によるものと思われる。これらを「作用の誤り」 「帰結の誤り」と呼んでもよい。作用の誤りはなんらかの機械的あるいは 電気的な欠陥に依存する。これはその機械に予期されていないふるまいを 引きおこす。哲学的な議論ではある人はこのような誤りの可能性を 無視したがる。つまり「抽象的な機械」について論じている のである。これらの抽象的な機械は物質的な実体ではなく、 むしろ数学的な想像の産物だ。定義によりこれらには作用の誤りが 起こることはありえない。この意味では、私たちは本当に 「機械は決して間違いをおかさない」と言える。帰結の誤りは その機械の出力信号にある意味が付加されているときにのみ現れる。 たとえば機械は方程式を打ち出すかもしれないし、あるいは 英語の文章を打ちだしてくるかもしれない。誤った命題が 入力されれば、私たちは機械が帰結の誤りをおかすだろうと言うことが できる。機械がこの種の誤りをおかさないという明白な理由は どこにもない。「0=1」をくり返し打ち出すだけでもそうなる。 もうすこしすなおな例だと、機械は科学的な帰納法から 結論を引きだすなんらかの方法を知っているかもしれない。このような 方法からは、しばしば誤った結果が導かれるのは当然のことだ。

機械がそれ自身を思考の対象にできないという主張は、もちろん 機械がなんらかの主題についてなんらかの思考を もつということが示せれば答えることができる。とにかく、 「機械の操作に関する主題」はなにか意味がありそうだ。 すくなくともそれを扱う人々にとっては。たとえば機械が 方程式 x^2 - 40x - 11 = 0 を解こうとしていた とする。ある人はこの方程式がこの瞬間における機械の 主題の一部であるとみなすかもしれない。このような意味ならば 機械は間違いなくそれ自身の主題になりうる。それは 自分自身のプログラムを作るのを手助けしたり、その構造を変更することによる 影響を予言するようなこともできるようになるかもしれない。 それ自身のふるまいから起こる結果を観察することで、より効率的に 目的を達することができるように自らのプログラムを変更するという こともありうる。これらはユートピアの幻想よりは、 近い将来にありうることかもしれない。

機械は人間と同じような多様なふるまいをすることはできない、という 主張に対しては、それが多くの記憶容量を持たないからだ、と答えることができる。 つい最近まで、1000桁ほどの記憶容量をもつ機械でさえ、非常に まれな存在だったのだから。

{p. 450}
私たちがここで考えている批判はしばしば意識からの議論のように 見せかけられている。 だれかが、機械はこれらの一つができると主張し、 そのために機械が用いる方法のようなものを説明しようとしても、 普通はたいした感動を与えられないだろう。こういった方法は (機械的なものには違いないが、それがなんであれ) じつにみっともない ものと考えられている。p. 446 で引用されているジェファーソンの記述のかっこの中と比べてみてほしい。

(6) ラブレス夫人の反論:
バベッジの解析機関の情報のうち、私たちが手にしているもっとも詳細なものは ラブレス伯爵夫人 (Lady Lovelace)の回想である。 その中で彼女はこう述べている:

「解析機関には何かを発明するようなことはできない。 それは私たちがどうやってそれを指令するか 知っていることなら、なんでも行うことができる (斜体はラブレス夫人)」

この表明は ハートリー (Hartree) (p. 70) によって引用されている。 彼はこうつけ加えている: 「これは『自分自身のために考える』電子装置を作ることができない、 ということを示唆しているのではない。もしかするとその中で、 生物学的な用語でいえば、条件反射を行わせることができるかもしれず、 それは“学習”の基礎を提供するだろう。原理的にこれが可能かどうかという 問題は、最近の技術の進歩によって提出されたものだが、これは非常に 刺激的でエキサイティングな問題だ。しかし当時、製作あるいは 計画されていた機械がこの性質を持っていたようには思えない」

この点について、私もハートリーとまったく同感だ。注意すべきことは、 彼は問題となっている機械が、 そのような性質を持っていなかったと主張しているのではないことだ。 むしろ彼が言っているのは、 当時のラブレス夫人が手にできた証拠からは、彼女はそのように 思えなかっただろうということである。この機械が、ある意味ではこの性質を 持っていたというのは、きわめてありうることだ。なぜなら、 ある種の離散状態機械がこの性質も持つと仮定してみよう。 解析機関は万能なデジタル計算機である。ならば、 もしその記憶容量と計算速度が十分なら、それは適切な プログラミングによってこの機械を真似できただろう。おそらく この議論はこの伯爵夫人にもバベッジにもなかったのであろう。 いずれにせよ、彼らにこのような主張をしろという義務はなかったのであるし。

この疑問は、学習する機械というテーマのときにもう一度考えることにしよう。

{p. 451}
ラブレス夫人の反論の変形は、機械が「本当に新しいことは 何もできない」というものである。これはさしあたって、 「何ものも太陽の下に新しいものはない」のような格言によって かわせるかもしれない。いったい誰が、自分のやった「オリジナルな 仕事」を、単に教育によってまかれた種を育てただけ、あるいは よく知られた一般則に従っただけのものでないと確信できるのだろう。 もっといい反論の変形は、機械は決して「人に不意うちを食らわせる」 ことができないだろうというものだ。これはより直接的な挑戦であり、 核心に迫っている。私はひんぱんに、機械に不意うちを食らわせられる。 これは大部分は私がそれらが何をするか予測するために十分な計算が できないためか、あるいはもっといえば、たとえ計算したとしても、 私はそれをあわてて、いいかげんなやりかたでやってしまい、当て ずっぽうなものになってしまうからだろう。もしかすると私は自分にこう言うかも しれない。「ここの電圧がこっちと同じだとしよう。とにかくそう 考えるんだ」。もちろん私はしばしば間違うし、その結果は私にとって びっくりするようなものになる。なぜならこの実験がおわるまでには、 これらの仮定は忘れてしまっているからだ。こういった自白をすると、 私の悪いやり方をばらすようなことになってしまうが、 だからといって、私が自分の経験した驚きを証言しても、それに 何の疑いを投げかけるものではない。

私は自分の批判をおさえるような返事は予期していない。 人はおそらく、そのような驚きは私の中で起こっている なんらかの創造的な精神活動によるものであり、なんら機械の 名誉ではないと言うだろう。これは私たちをまた意識からの議論に戻してしまい、 驚くという概念からほど遠いものだ。この議論はもう閉じた線の中にある とみなさねばならない。しかし、あるいは次のことは心にとめておく価値がある。 その驚きの原因が人間、本、機械あるいはその他の何であれ、驚きという ものは何かを称賛することと同じくらいの“創造的な精神活動”を必要とする のだと。

機械は人を驚かすことができないというこの見方は、私が思うに、 哲学者や数学者が特に陥りやすい誤信のせいだろう。これは、 ある事実が心の中に提示されるや、すぐにそこから全ての帰結が 同時に湧き出てくる、という仮定である。この仮定は多くの状況で非常に 役立つのだが、人はこれが間違っているということをあまりにも 簡単に忘れてしまう。このように考えると、 一般的な原則やデータからの帰結を無視してただ働くということに、 当然ながら美徳などぜんぜんないという結論になってしまう。

(7) 神経システムの連続性からの議論:
神経システムはたしかに離散状態機械ではない。 ニューロンに入射する神経パルスのわずかな大きさの 差によって、そこから発されるパルスの大きさはかなり 違ってくるということもありうる。もしそうだとしたら、 離散状態機械で神経システムのふるまいをまねるのは不可能だという 議論も生まれてくるかもしれない。

{p. 452}
離散状態機械が、連続な機械とは異なるというのは事実である。 しかしもし私たちが模倣ゲームの条件にあくまでも準ずるならば、 質問者はこの違いによって何も有利にならないだろう。 状況をもっとはっきりさせるために、より簡単な他の連続機械を 考えてみよう。非常にいい例は微分回路だ (微分回路は離散状態機械ではない 機械の一種であり、ある種の計算に使われる)。これらのうち、あるものは その答えをタイプして出力する。だからこれは模倣ゲームに 参加させるのに適している。デジタル計算機は、この微分回路が どのような答えを出すか正確に予測することはできないだろう。 けれどもデジタル計算機はきわめて正解に近い答えを出すことができるだろう。 たとえば、円周率の値 (およそ 3.1416) を尋ねられたら、 その値の候補 3.12, 3.13, 3.14, 3.15, 3.16 の中から それぞれ (たとえば) 0.05, 0.15, 0.55, 0.19, 0.06 の確率でランダムに 選択するようなことは理にかなっている。このような状況においては、 質問者が微分回路とデジタル計算機を区別することは非常に難しいに ちがいない。

(8) 形式的でないふるまいからの議論:
人間が何をするか、考えられうるかぎりの状況ですべて記述するような ルールを作ることは不可能だ。たとえばある人は赤信号が見えたときに 止まり、青ならば進むというルールをもっているかもしれないが、 なんらかの故障によって両方がついたらどうなるのか? もしかすると 止まるのがいちばん安全だと思うかもしれない。しかしこの決定の後になって 厄介なことが出てくるということも、よくありそうだ。 もしこういったことが信号機から起こったとしたら、 起こりうるあらゆる事態を想定した交通整理のルールを作るのは なおさら不可能なように思える。私はこれらにはまったく同意する。

このことから私たちは機械にはなれないという議論がなされる。 私はこの意見を作りなおしてみたいのだが、うまくできるかどうか 不安だ。その議論はこんなふうに進むだろう。 「もし、それぞれの人が、自らの生命を律する (regulate his life) おこないの 有限なルールの集合をもっていれば、彼は機械と同程度でしかありえない。 しかしそのようなルールはないので、人は機械ではありえないのだ」 Undistributed middle (訳注 5) はきわだっている。 私はこの議論が よもやこのような形で現れるとは思っていないが、結局はこういう議論に なってしまうのだ。しかしここでは「おこないのルール」と「ふるまいの法則」が 混同されていて、それが問題をうやむやにしているのかもしれない。 「おこないのルール」とは、私は「赤信号が見えたら、止まれ」 などの教訓のことを言っている。人はこのようなルールのもとで行動し、 このルールを意識している。「ふるまいの法則」とは、 人間の身体におよぼされる自然の法則のことだ。たとえば「あなたが 誰かをつねったら、その人は悲鳴をあげる」などのような。 私たちが「生命を律するおこないのルール」を「生命を律するふるまいの法則」に 起きかえたとしたら、上に引用された議論の Undistributed middle はもはや手に負えないものではなくなる。 私たちが真であると思っているのは、 ふるまいの法則によって律されることが、 なんらかの (必ずしも離散状態機械だけではなく) 機械であることを暗に含む、 ということだけではない。逆に、そのような機械であることは そのような法則によって律されていることを暗に含んでいる、ということも 真だと思っているのである。だが、おこないのルールと同じように、 完全なふるまいの法則もないのだとあまり簡単に諦めてしまっては いけない。そのような法則を知る唯一の道は科学的な観測であって、 どんなことがあっても私たちは「我々はもう十分探した。でも そんな法則はなかった」とは言わないだろう。私たちはそのことを知っている。

{p. 453}
もっと力ずくのやり方で、このような議論はどんなものでも不当だと 証明することができる。なぜなら、もしそういう法則が存在するなら、私たちには それを見つけられるという確信がもてる、と仮定してみよう。 すると、ある離散状態機械が与えられれば、それを 十分に観測することによってそれが今後どのようなふるまいをするか 予測することができるはずだ。それも、適当な時間内、たとえば数千年 ぐらいの間に。しかしこれは事実ではないらしい。私が マンチェスター計算機に 1000 ユニットの記憶容量しか使わない 小さなプログラムをのせて、機械がある sixteen figure number を与えられると、もう一つを 2秒以内に返すようにする。 これらの返答からそのプログラムの動きを十分に見通して、 まだ試されていない番号にそれがどんな値を返すのか予想するなんて、 私はそんなこと誰もできっこない、と思うだろう。

(9) 超感覚的知覚 (ESP) による議論:
私は読者が超感覚的知覚、すなわち、テレパシー、透視、予知、念力の 4つの意味を知っていることを前提としている。これらのおだやかならぬ現象は 私たちのいつもの科学的な概念をすべて否定してしまうように 思える。いったいどうやって、これらの信用を落としめたらいいのだろう! 残念なことに統計的な証拠は、少なくともテレパシーに関しては 有無を言わさぬものがある (訳注 6)。人の概念をこれらの新事実に合うように ふたたび整理するのは非常に難しい。ひとたびこれを受け入れて しまうと、幽霊やお化けを信じるのにたいした障害はないように 見受けられる。私たちの身体は単によく知られている物理学の法則に のっとって移動するとともに、まだ発見されていないが、それに 似た何物かも一緒に移動しているという考えは、その最初の段階だ。

私にとって、この議論は非常に強い。この答えとして、 たとえ ESP と衝突しようとも、多くの科学理論は依然としてきちんと 使いものになるのだ、とは言える。つまり実際は、これについては きれいさっぱり忘れても人はうまくやっていける、というものだ。 これはかなり冷たい慰め方であるし、考えることこそ、 まさに ESP のような現象がとりわけ重要になってくるという人もいるだろう。

もっと ESP に特化された議論はたぶん次のように進む:

{p. 454}
「模倣ゲームをすることを考えよう。被験者はテレパシーをちゃんと 受信できる人、およびデジタル計算機とする。質問者は次のような 質問を行うことができる。『私の右手にあるカードのマークは何でしょう?』 人間はテレパシーもしくは透視によって、400回のうち 130回を 正しく言いあてる。機械は当てずっぽうに頼るしかないため、せいぜい 104回 ぐらいしか当たらない。よって質問者は正しく判断できる」 ここには新しくひらけた興味ある可能性がある。デジタル計算機が ランダムな番号の生成器をもっているとしよう。するとどんな答えが 得られるかを決めるのに、これを使うのはもっともである。しかし そうするとランダムな番号の生成器は質問者の念力によって影響される だろう。ひょっとするとこの念力は機械に正しい判断を、確率によって 予測されるより多くさせるようにしてしまうかもしれない。だとすると 質問者はやっぱり正しい判断ができないことになる。あるいは、 彼はまったく質問しなくても正しく言い当てることができるのかも しれない、なぜなら透視があるから。ESP があれば、なんだって起こりうるのだ。

テレバシーが認められるようなことがあれば、私たちのテストを 強化する必要があるだろう。質問者が独り言をいっていて、 相手のひとりがそれを壁に耳をつけて聞いていても、同じような ことが起こる。相手を「防テレパシー室」に入れておけばすべての要求は 満たされるようである。

7. 学習する機械

読者は私が、自分の予想を支持するような 説得力のある論拠を持ち合わせていないと思っていたことだろう。 そうでなければ、私が今までこんなに反対意見の論駁のために 骨を折ることもなかっただろうから。ここではそのような証拠を見ることにする。

しばらくの間、ラブレス女史の反論に戻ってみよう。これは、 機械というものはしょせん、やれといわれたことしかできない、 という主張であった。人間は機械にアイデアを“吹き込む”ことが できると言う人もいるかもしれない。そしてそれはある程度まで反応し、そのあと 沈黙に至るのだと。ちょうど、ハンマーで叩かれたピアノの弦のように。 これに似ているのは臨界量以下の原子炉である。吹き込まれたアイデアは さしずめそこに外から打ち込まれた中性子だ。このような中性子は ある程度の撹乱を起こすが、いずれ止まってしまう。でも、もし 炉がじゅうぶんに大きければ、打ち込まれる中性子による撹乱は かなりの確率で継続する見込みがたかく、それが炉をまるごと壊してしまう くらいにまで増大するだろう。心にはこれと似たような現象が あるだろうか、そして機械にはどうだろう? 人間の心には、それが ありそうなのだ。これらの大部分は“準臨界”、すなわち準臨界量の 原子炉のアナロジーに相当する。このような心に吹き込まれたアイデアは たいていひとつ以下のアイデアを産み出してくるだろう。やや小さい分け前は 超臨界である。このような心に吹き込まれたアイデアは第2、第3はおろか、 はるかに先までの「理論」をまるごと産み出せるかもしれない。この アナロジーにのっとって考えてみよう。「機械は超臨界に達することが できるか?」

{p. 455}
「たまねぎの皮」のアナロジーも助けになる。脳や心の機能を考えると、 私たちが説明できるある動作は純粋に機械的なものであることに気づく。 私たちは、これは本当の心ではなく、本当の心を見いだすために 剥かなければならない皮のようなものだと言う。しかしどんなものを見つけようとも その先にはまだ剥くべき皮がある、以下同様。この手の進みかたで 私たちはほんとうに「真の」心にたどりつけるのだろうか、それとも ついにはもはや何も入っていない皮を剥いてしまうのだろうか? 後者の 場合、心は全てまるごと機械的だということになる (が、これは離散状態 機械でないということもありうる。これについてはもう議論した)。

上の 2つの段落は説得力ある議論を展開しようとしているわけではない。 これらはむしろ「信念をつくりだそうとする詠唱」とみるべきだろう。

6. 節のはじめにみたような意見を支持するような唯一満足できるものは、 今世紀の終わりまで待ってから説明されたような実験を行うことである。 しかしそれまでの間に私たちは何を言うべきだろう? この実験を成功させるために どんなステップを踏まなければならないのだろうか?

すでに説明したように、おもな問題はプログラミングに関係する。 技術の進歩ももちろん必要だろうが、これらの要求にとって不適切となる とは考えにくい。脳の記憶容量はだいたい2進数でいって 10^10 から 10^15 桁 くらいと見積もられている。私は下限のほうであってほしいし、 高尚な思考に使われているのはその中のごくわずかな部分であると思いたい。 そのほとんどはたぶん視覚的な印象の保持に使われているのだろう。 いずれにせよ、もし目隠しした人を相手にして 模倣ゲームをするのに、10^9 以上の記憶容量が必要だとしたら驚きだ (ちなみに、ブリタニカ百科辞典 第11版の容量は 2×10^9 である)。 10^7 ほどの記憶容量ならば現在の技術でも十分に実現可能である。 機械の実行速度をあげる必要はたぶんまったくないだろう。 神経細胞のアナロジーと見なすことができる現代の機械には、神経細胞より およそ 1000倍も速く動作できるものもある。これはさまざまな部分で 発生しうる速度低下をおさえる「安全のための空き」となる。すると私たちの問題は いかにしてこの機械に模倣ゲームをするようプログラミングするか、 ということになる。今の私の仕事ぶりだと、私は一日に 1000桁のプログラムを 作ることができる。だから 60人の技術者が 50年間休みなく働けばこの仕事を 終わらせることができるかもしれない。ゴミ箱行きになるものが ないとしての話だが。もっと効率的な方法がぜひとも望まれるところだ。

成人の心を模倣しようとする過程では、私たちはその心を そのような状態にさせてきた過程について、真剣に考えざるを得なくなる。 それは 3つに分けられるかもしれない:

(a) 生まれたときの、心の初期状態
(b) それまでに与えられた教育
(c) その他、教育とはいえないが、なにか影響されたもの

{p. 456}
成人の心を模倣するプログラムを作る代わりに、むしろなぜ 子供の心を模倣するプログラムを作ろうとしないのか? それがちゃんとした教育課程を受けてくれば、成人の脳と 同じものを獲得するだろう。思うに子供の心とは、文房具屋で 買うノートのようなものだ。その仕組みは単純で、たくさんの空白ページが ある (ここでいう仕組みと、書かれているものとは私たちの観点からみれば ほとんど同義である)。私たちの期待は、子供の脳に非常にささやかな機構が あって、それは簡単にプログラムできうる、ということだ。 それに見積もる教育の仕事量は、1次近似としては人間の子供に対する 教育と同じくらいになると思われる。 このように、問題を 2つに分けることにしよう。子供のプログラムと 教育課程である。これらはまだ非常に密接に関連している。私たちが 最初によい子供機械を発見できることは期待できない。そのような機械を 実験的に教育してみて、それがどれくらいうまく学習するか 観察しなければならない。そののち別の機械でためしてみて 良いか悪いかを見るのである。このプロセスと進化の間には明らかな 関係がある:

子供機械の構造 = 遺伝形質
子供機械の変化 = 突然変異
自然選択 = 実験者の判断

けれども、このプロセスは進化よりも速く進行するということも考えられる。 いちばんよいものが生き残るというのは、優位性を計るには 遅いやりかただ。実験者は知的なトレーニングを行うことによって、 これをスピードアップできるだろう。これと同じくらい重要なのは実験者が ランダムな変異に制限されなくともよいということである。彼が なんらかの弱点の原因をつきとめることができれば、たぶん彼は それを改良するような突然変異を考えることができる。

機械に対して、普通の子供とまったく同じ教育課程を適用することは できないだろう。たとえば脚がなかったりするかもしれず、 その場合には外にでて、石炭袋をいっぱいにしてこいと命じるわけにも いかない。おそらくそれは目も持たないかもしれない。しかしこれらの 能力の欠如が巧妙な機械によって、どんなにうまく克服されたとしても、 この生き物に対して思う存分いたずらをするような子供のいない学校に この機械を送ることはできそうにない。これは授業料をもらわなければならない。 私たちは脚や目や、その他についてそれほど心配する必要はない。 ミス ヘレン・ケラー (Helen Keller) の例は、なんらかの手段によって 先生と生徒の間に双方向のコミュニケーションがあれば、教育が成り立つことを しめしている。

{p. 457}
私たちはふつう教育課程において罰と報酬をむすびつけている。 いくつかの簡単な子供機械はこの種の法則にのっとって作られ、 あるいはプログラムされうる。この機械は、行動の直後に発生した罰の シグナルが繰り返し起こることがなるべくないように作られる必要がある。 いっぽうで、報酬のシグナルはそれを引き起こした行動が繰り返される 確率を増やすようにする。この定義は機械のその部分にはどんな感覚も 仮定していない。私はこのような子供機械のひとつに対し いくつかの実験をしてきており、これに少しばかりのことを教えこむのに 成功している。しかしこの教育手法はすこし正統的でなさすぎるので、 この実験が真に成功したとはいえない。

罰と報酬の使用は、よくても教育課程の一部でしかない。粗っぽく いえば、もし教師が生徒と通信する手段をほかに何も持っていなかった とすると、生徒に伝達される情報の量は罰と報酬が適用された 合計回数を超えることはないだろう。子供が「カサビアンカ (Casabianca)」 を暗唱することを覚えるまでに、彼はたぶん非常につらい 思いをすることになるだろうし、もしその文章が「20 の質問」方式でしか 与えられないとしたら「NO」が出るたびに殴ることになる。 したがって他になんらかの「感情的でない」伝達のチャンネルが必要に なる。これらが使用可能ならば、機械にものを教えるときに、 なんらかの言語、つまり記号言語によって与えられた命令に 従わせるために、罰と報酬を使うことができる。これらの命令は その「感情的でない」チャンネルを介して伝達される。言語の 使用によって、罰と報酬が必要な回数をいちじるしく減らすことが できるだろう。

{p. 458}
子供機械に適切な複雑さについては、意見が分かれるかもしれない。 あるものは一般的な原則をみたす範囲で、できるだけ単純になっている かもしれない。また別のものは完全な推論システムが「組み込みで」 入っているかもしれない (原註 3)。この場合、 記憶装置のほとんどは定義と命題で占められているだろう。命題は さまざまな種類の状態のものをふくんでいる。すなわち、確固とした 事実や推測、数学的に証明された定理、権威によって与えられた 言明、命題の論理形式をもつ式などであるが、真理値は含んでいない。 ある命題は「命令形」で書かれているかもしれない。機械は この命令形が「確固たる事実」に分類されるやいなや、 自動的に適切な行動を起こすようになっている。 わかりやすく説明するために、教師が機械に「いま宿題をやりなさい」 と言ったと仮定してみよう。これは“教師が『いま宿題をやりなさい』 と言った”ということが確固たる事実のなかに入れられる。ほかにも このような事実として“教師の言うことはなんでも真である”が あるかもしれない。これらを組み合せることにより最終的に次のような 命令が導かれる。「いま宿題をやりなさい」これが確固とした 事実のなかに含まれ、そして機械の構造によって宿題が実際に 開始されることを意味するだろうが、この効果はたいへん満足のゆく ものである。機械によって使われる推論の過程は、いちばん厳密な 論理学者がするようにはしなくてもよい。たとえば型の階層などはない かもしれない。けれどもこれは型の不一致が、私たちが柵のない絶壁から 落ちてしまう以上に起こるということを意味しているのではない。 適切な命令 (これはシステムの範囲内で表現されているのであって、 システムそれ自身の規則を構成しているわけではない)、たとえば 「教師によって言及されたクラスのサブクラスでないようなクラスを使うな」 といったものは、次のような命令と同様の効果をもつ: 「絶壁に近づきすぎるな」

手足のない機械が従う命令は、上の例 (宿題をせよ) で見たような、 かなり知能的な性格をおびたものにならざるをえない。このような命令のうち 重要なのは問題となっている論理システムの規則が適用される順序を 整えるものである。論理システムを使うとき、その各段階において 非常に大量の異なる選択肢があり、その論理システムの規則に 従う限り、そのどれもが適用を許されている。これらの選択の違いが、 まぬけな論者と賢い論者の違いを生むのであって、健全な 論者と虚偽の論者の違いを生むのではない。この種の命令を導出する 命題はこういうものかもしれない。「ソクラテスについて 言われたときは、バーバラにある 3段論法を使え」あるいは「もしある 方法が別のものよりも速いと証明されたなら、遅い方は使うな」 これらのうちいくつかは「権威によって与えられて」いるが、 残りのものは機械自身によって生成されるのかもしれない、すなわち 科学的な推論によって。

この学習する機械というアイデアは矛盾しているように思われる 読者もいるだろう。この機械の操作規則はどのようにして変わるのか? その機械がどんな歴史をたどってこようと、どんな変化を 受けてこようと、それらの規則はその機械がどうそれに反応するかを 完全に規定していなければならない。だとすればその規則は まったく時間によって変化しないはずだ。これはまったく正しい。 このパラドックスの説明は次のようになる。学習過程のなかで 変化した規則は少しももったいぶったものではなく、目先の正当性を 主張するだけのものだからだ。読者は合衆国憲法と比較してもよい。

{p. 459}
学習する機械で重要なことは、その中でいま何が起こっているかということに ついて、その教師はほとんど何も知らないだろうということである。 たとえその生徒の行動を教師がある程度予測できたとしてもだ。 これは洗練された作りの (あるいはプログラムされている) 子供機械から 成長した機械への教育の後半部分にもっとも強くあてはまる。 これは機械に計算をさせるときの、標準的な手続きとは好対照をなしている: このときある人の目標は計算の各瞬間における機械の状態の 明確な心的イメージをつかむことである。この目的は試行錯誤によってのみ 達成することができる。「機械は私たちがどうやってやるか指示できることしか できない」 (原註 4) という見方はここでは 奇妙に思われる。機械に入力するプログラムのほとんどはまったく 意味不明な出力になるか、あるいは完全にランダムとしか思えないものになる。 知的なふるまいというものは、おそらく計算中の完全に規定されたふるまいからの 逸脱によって成り立っているのだろう。しかしこれはかなり微妙なもので あって、ランダムなふるまいを生じるのでもなければ、意味のない繰り返し ループになるのでもない。私たちが機械を教育と学習によって、模倣ゲームの 相手となるよう育てた結果には、もうひとつ重要なものがある。 「避けられない人為的ミス」がじつに自然になくなりそうなことである。 つまり、特別な「コーチをつとめる」ことなしに (読者はこれと 24、25 ページの見方とで折り合いをつける必要がある)。 学習のプロセスは 100% 確かな結果を つくるものではない。もしそうなら、機械は忘れ去ることができなくなってしまう。

{p. 460}
学習する機械にランダムな素子を使うことはたぶん賢いやり方だ (p. 438)。 ランダムな素子はある種の問題の答えをみつけるのに かなり有用である。たとえば 50 から 200 までのうち、ある数を 見つけたいと思っているとしよう。この数はその数字の和の 2乗に等しい。51 からはじめて、つぎに 52 というようにうまくいく数が 得られるまで続けていくという方法もあるかもしれない。 もう一つのやり方は、いい数が見つかるまで数をランダムに選んでいく というものだ。この方法はいままで試した数を覚えている必要が ないという利点がある。が、同じ数を 2度試してしまうかもしれないという 欠点もある。けれどもこれは答えがいくつもあるときはさして 重要ではない。順序立った方法は、最初のほうで探す領域には まったく解がないような、広大な領域を探さなければならないときに不利となる。 このように、学習過程というものは、教師 (あるいはなんらかの基準) を 満足させるようなふるまいの形式を探すこととみなせるのかもしれない。 たぶん非常に沢山の満足な解答があるため、ランダムな方法は 順序立った方法よりもよさそうに思える。この方法がこれとよく 似た進化の過程に使われていることに注意してほしい。しかし順序だった方法は 不可能だ。いったいどうやって同じ遺伝子をもう一度使うのを 避けるために、べつべつの遺伝子の組み合せを覚えていることが できるのだろう?

私たちは機械が、いつの日か純粋に知的な領域で人間と競争するように なることを望んでいる。けれどもどれから始めるべきだろうか? これはかなり難しい決定だ。多くの人々は非常に抽象的な概念、 たとえばチェスをするようなことから始めるのがいちばんいいと 考えている。あるいは機械に金で買える最高の感覚器官をとりつけて 英語を話すことと理解することを教えこむのがいいと言われることも ありうる。この過程は普通の子供を教育するのと同じような道を 歩むかもしれない。ものを指さして名前を言うとか。繰り返すが 私は正しい答を知っているわけではない。しかし私は両方の アプローチを試してみるべきだと思っている。

私たちはまだほんのすこし先までしか見通せない。 しかし私たちのやることは、まだたくさんあるのがわかる。

参考文献

Samuel Butler, Erewhon, London, 1865. Chapters 28, 24, 25, The Book of the Machines.

Alonzo Church, An Unsolvable Problem of Elementary Number Theory, American J. of Math., 58 (1936), 345-363.

K. Gödel, Über formal unentscheidbare Sätze der Principia Mathematica und verwandter Systeme, I, Monatshefte für Math. und Phys., (1931), 173-189.

D. R. Hartree, Calculating Instruments and Machines, New York, 1949.

S. C. Kleene, General Recursive Functions of Natural Numbers, American J. of Math., 57 (1935), 153-173 and 219-244.

G. Jefferson, The Mind of Mechanical Man, Lister Oration for 1949, British Medical Journal, vol. i (1949), 1105-1121.

Countess of Lovelace, Translator's notes to an article on Babbage's Analytical Engine, Scientific Memoir (ed. by R. Taylor), vol. 3 (1842), 691-731.

Bertrand Russell, History of Western Philosophy, London 1940.

A M. Turing, On Computable Numbers, with an Application to the Entscheidungsproblem, Proc. London Math. Soc. (2), 42 (1937), 230-265.

Victoria University of Manchester.

脚注

原註 1. この見方は、たぶん異端である。聖トマス・アクィナス (神学大全 (Summa Theologica)、これはバートランド・ラッセル, 1, 480 によって引用されている) はこう述べている。神は魂を持たない 人間を作ることはできない。しかしこれはその力の真の限界を示すものではなく、 ただ人間の魂というものが不滅であり、したがってこわれることがない という事実による結果でしかないのだと。

原註 2. 斜体の著者名は、参考文献にある。

原註 3. あるいは、「プログラムされる」というべきかもしれない、 子供機械はデジタル計算機上でプログラムされることになるだろうから。 しかし論理システムは学習しなくてもかまわない。

原註 4. ラブレス夫人の陳述 (p. 450) と比べてみよう。 これは「だけ」という単語は含んでいない。


訳注:

訳注 1. チューリングの時代にはまだ半導体を使った計算機というものはなく、 計算機はリレーや真空管などによって動いていた。だから「電気」計算機なのだ。 なお、原文では計算機は computer と書かれているのだが、カタカナで 「コンピュータ」と書くとイメージが変わってしまう気がしたので、ここでは 以降「計算機」でいく。

訳注 2. ここでチューリングが挙げている計算機の定義は 現在でもまったく変わっていない。最新のプロセッサにみられる 「パイプライン」とか「2次キャッシュ」とかいう技術は、 これら 3つの部分のやりとりを効率化するためだけのもので、 原理的には世の中のコンピュータはすべてここで説明されている原理で 動いている。

訳注 3. ここでいう「できない」とは 「できるかできないかを判別するのに無限の時間がかかる」ような状態のこと。

訳注 4. ここんとこは、ちょっとわかりにくいかもしれない。人工知能では 問題解決はそのほとんどが組み合わせの「探索」として定義される。 たとえば「1000手以内で将棋に勝つ方法」というのも、将棋の 1000手以内の すべてのさし方の組み合わせ (沢山あるが無限ではない) のなかから 正しい組み合わせを「見つける」ことが問題を解く、ということに相当する。 現在のコンピュータは、ほとんどがこのようにして複雑な問題を解いている。 探索をしらみつぶしにやるのは効率が悪すぎるため、なんとかして この探索範囲をせばめようという研究が現在の人工知能のおもな研究テーマである。 人間は「常識」という規則をつかって、この探索を狭めることに よりさっさと答えを出すと考えられている。

訳注 5. Undistributed middle は論理学の用語だが、訳語がわからなかった (2000/5/1 ちなみに櫻田和也さんのご指摘によると、これは「不周延媒概念」 と訳されるらしいが、あまりにイカツイ単語なので英語のままにする)。 例をあげると、以下のような間違った推論:

  1. ソビエト人は革命家である。
  2. アナーキストは革命家である。
  3. したがって、ソビエト人はアナーキストである。
における「革命家」の部分が undistributed middle である。 チューリングの文章ではこれを逆に使っていて、 「ある決まったルールをもつ」ということが undistributed middle に なっている。機械はルールをもってるが、人もルールをもっていない、 だから人 ≠ 機械だ、という具合。

訳注 6. この手の結果は、現在では疑問視されている (はず)。

訳者あとがき:

アラン・M・チューリング (Alan M. Turing, 1912-54) は、フォン・ノイマン、クロード・シャノンと 並んで電子計算機の生みの親として知られる。彼は計算のアルゴリズムについて 詳しく研究しており、情報系の学科では必ず習う「チューリング・マシン」 や「チューリング・チャーチの提唱」などの概念は彼の業績によるものだ。 その彼がいまから 50年前に書いたこの文からは、彼が人工知能と 認知科学の分野においても先駆者であったことがうかがえる。 ケンブリッジにいた時は、このテーマについて ウィトゲンシュタインなどとも議論していた らしい (cf. 「認知科学への招待」)。彼がここで提案した「模倣ゲーム」は、 現在「チューリング・テスト」という名前で知られている (なお、彼が 定義した離散状態機械の一種で、現在「チューリング・マシン」と 呼ばれているものがあるが、これはとくにチューリング・テストとは 関係ないので注意)。 チューリングがこの論文でしている予言は、コンピュータの記憶容量の発展に ついてはだいたいあたっていた。いまでは 10^10 桁 (≒ 10ギガバイト) 程度のメインメモリをもつコンピュータはざらにあるし、2次記憶にいたっては 10^13 桁 (≒ 10テラバイト) のものだって存在している。 しかし、人類は依然として模倣ゲームをうまくやれるようなコンピュータを 作れてはいない。 彼の「21世紀までには計算機で模倣ゲームをうまくやれるようになるだろう」 という部分は見事にはずれている。

この論文には、人工知能や認知科学、複雑系といった、 のちの学問の萌芽となるアイデアがみられる。 チューリングの死後 1960年代に人工知能という学問 がうまれた。これは人間の知能と同じか、もしくはそれを超えるも のをコンピュータによって実現しようという学問で、最初はすぐに でも実現できることのように考えられていた。しかし視覚の問題、運動制御の問題、 そして言語と意味の問題など、いまだに人工知能の問題でどれひとつとして コンピュータが人間の能力に追いついたためしはない (あ、チェスがあったか)。 チューリングは人工知能ができて、 いわゆるお高い「教養人・知識人」が打ちのめされるのを望んでいたらしい。 そして彼はそのような人工知能ができた日には、そいつに手足をつけて イギリスの田園をのんびり散歩させようと言っていたという (cf. 「ゲーデル・エッシャー・バッハ」)。 この論文でチューリングが示唆した可能性は、 いまだ多くの人の心をとらえつづけている。

訳者が参考にした文献:

The Alan Turing Home Page

Hofstadter, D., 「ゲーデル・エッシャー・バッハ」, 野崎昭弘, はやしはじめ, 柳瀬尚紀 共訳, 白揚社, 1985

Leiber, J., 「認知科学への招待 〜 チューリングとウィトゲンシュタインを道しるべに」, 今井邦彦 訳, 新曜社, 1994


Last modified: Mon Nov 5 18:35:03 2001
Yusuke Shinyama