不在について

「ムーミン谷の十一月」

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「ムーミン谷の十一月」はおかしな物語だ。 このお話にはムーミン一家はまったく出てこない。 かれらはどこか遠くへ出かけている。 かわりに登場するのはムーミンたちの友人や知人たちである。

これは“不在”についてのお話である。 別れのあとにくる不在の話、といってもいいかもしれない。 ただしここでは“別れ”そのものは省略されていて、 純粋な“不在”だけが語られている。 “別れ”はある時点でしかおこらない出来事であるのに対し、 “不在”は状態だ。それは別れが過ぎたあとも、ずっとつづく。 もしかすると、とても長い間。

物語は、ムーミン一家の知り合いが あちこちから晩秋のムーミン谷に集まってくるところから始まる。 でもそこにはムーミンたちはいなかった。 「ムーミンパパ海へいく」を読んでいれば、 「ムーミン谷の十一月」はこの物語と同期していて、 このときムーミンたちは島で暮らしていると予想はできる。 でも「一方このときムーミンたちは…」といった記述は 今回はまったく出てこない。 ムーミンたちは、ここでは読者からも登場人物からも 完全に遮断されているのだ。

ムーミン谷をたずねてきた人々は、誰もいないムーミン屋敷ではち合わせになる。 でもなんとなくそのまま帰るのはしのびないので、みんなは その家でムーミンたちが帰るのを待ちながら一緒に暮らしはじめる。 そこで起こるさまざまないざこざが、この物語のメインストーリーである。

登場人物たちはみんな、なんらかの個人的な問題をかかえている。 いい曲が思いつかないスナフキン、日々の生活にあきあきしてしまった ヘムレンさん、そうじができなくなったフィリフヨンカ、 ムーミンママのことが気になってしょうがないホムサ…。 かれらはムーミンたちの生き方にあこがれてここへ来た。 なのに、ここではそのムーミンたちの“不在”をひしひしと感じさせられる。 からっぽのムーミン屋敷は、森で迷った人たちがいざというときでも 泊まれるように、留守中にも鍵がかかっていないのだが (著者のヤンソン自身、別荘には鍵をかけない主義だったらしい)、 みんなの頭の中では理想郷だったムーミン屋敷も、 いまやがらんとしている。うすら寒く、ひどく寂しい光景だ。 床にはほこりが積もっている。これを見て「ムーミンママは勤勉に掃除する」と 信じていたフィリフヨンカはショックを受ける。 ほかの連中も多かれ少なかれ、みんながっかりすることになる。

この物語では、みんなはムーミン一家になんらかの理想化された 妄想を抱いている。そして誰もが、自分こそかれらの“真の理解者”なのだと 信じている。スナフキンはムーミンに対して、 フィリフヨンカはムーミンママに対して、 ヘムレンさんはムーミンパパに対して、 ミムラねえさんはミイに対して、それぞれある種の思いこみをもっており、 「彼(彼女)ならきっとこうするにちがいない」と考える。

そしてみんな、ムーミンたちに会えないさびしさを埋めようと奔走する。 スナフキンはムーミントロールが残しているはずの手紙を探し、 フィリフヨンカはムーミンママのようにやさしくふるまおうと必死になる。 ヘムレンさんは木の上に家をつくって、いつかムーミンパパとそこで 語りあいたいと夢想する。自分の理想であるムーミンたちの イメージを保ちつづけるために。 しかしそれらはどれも徒労に終わる。ムーミンからの手紙は見つからないし、 フィリフヨンカはどうやっても周囲から「なにかが違う」という 違和感ばかりもたれてしまう。ヘムレンさんの家づくりも失敗ばかり。 そしてかれらは気づくのだ。ムーミンたちがいたときはかれらは まったく自然に見えたのに、いざいなくなってみると 誰もその「自然さ」を表現できないということに。 その結果、みんなの思いこみはますます強くなり、 ついにはお互いの意見が対立するようになってしまう。

重要なこと。このお話では、「いま現在の」ムーミンたちの 様子を示すものはなにひとつ出てこない。 かわりに出てくるのは、かれらの痕跡と思い出だけ。 それも話の途中でポツリポツリと顔を出すにすぎない。 ムーミンたちのイメージをきわ立たせてくれるようなものはなにも現れない。 ここではまるでムーミンたちは死んだのと同じような状態で 扱われているのである。かれらの消息は一切伝わってこないのだ。

「ムーミン谷の十一月」を読んでいると、たぶん、死んだ人を思いだすとき、 ぼくたちはきっとこんなふうに思い出すのではないだろうかと思えてくる。 ここでは誰もムーミンたちに近づくことはできない。 ただしこの物語には“不在”の前に起こったはずの悲しい“別れ”は出てこない。 別れの悲しさというものは一時的な状態であり、それはやがて薄まる。 けれども“不在”はそうではない。 物語では、ムーミン一家の生活の断片がところどころに現れる。 それを見て、かれらはムーミンたちがこの屋敷で生活していたころの様子を思い出す。 そして、ムーミンたちが「いない」という事実を何度も何度も思い知らされる。 静かでつめたいこの事実が、物語全体をもの寂しい風景にしたてあげている。 木枠にぽっかりと空いた穴に風が吹きぬけるような、寒々とした雰囲気。 でも登場人物たちはこの“不在”とつきあっていかなければならないのだ。

注目すべきことに、登場人物は 最終的にはだれもムーミンたちに会わずに帰っていく。 つまりムーミンたちが帰ってくるのを待たずにムーミン屋敷から出ていってしまう。 ホムサだけは最後に帰ってくるムーミンたちを 出迎えることになっているが、だいじなのはムーミンたちがいなくても、 スナフキンやヘムレンさんやフィリフヨンカが元気をとり戻せたということである。 これがこの物語の中でいちばん微妙で、不思議なところだと思う。 かれらはどうやって“ムーミンたちの不在”を克服したのだろうか?

ひとつのきっかけは、パーティだと思う。 そしてもうひとつは、大そうじだ。 最初いがみ合っていたかれらは、最終的にかれら自身の関係をつくりだす。 はじめは、かれらの共通点は「ムーミンたちの知り合いであること」だけだった。 でも最終的にかれらは自分たちで共有できるものを見つける。 でもそれはムーミンたちとは何の関係もない、 みんなでパーティをしたり、一緒にそうじをしたりするという、 小さなことだった。 最後の大そうじが終わったあと、みんなはベランダで 何をするということもなくぼんやりとたむろす。 まるでこの場から離れたくないというように。

あたりまえのことかもしれないが、さびしさは他のものによって埋め合わせることができる。 そしてそれが“不在”に対する、唯一の解決策なのかもしれない。 でもその“埋め合わせ”は、そんなに大したものじゃなくていいんだ、 というのがヤンソンの言いたいことではないだろうか。 肩肘はらなくていい、ただ日々の「小さなこと」を大切にすればいい -- 落ちこんでいても、部屋をかたづけ、買い物に行き、料理をし、 小さな工夫をかさねているうちに、日々の生活を改善する自信が生まれ、 心を落ちつかせることができる。だからこの物語にはそういう描写が 多いのだろう。ミムラねえさんの髪の手入れや、 フィリフヨンカの残りものをうまく使った料理などがていねいに書かれている。 ところどころにある、ズッコケなやりとりもおかしい。うらやましい生活だ。

やがて登場人物はひとりずつ自分の家に帰っていき、ムーミン谷には本物の冬がやってくる。 あたりの景色はますます寂しくなり、誰もいない谷はひっそりとしずまりかえる。 この物語は島へ行っていたムーミンたちが船で帰ってくるところで終わっている。 最後までただ一人ムーミン谷に残っていたホムサは、 かれらを出迎えるために船着き場へとかけだす。 でもムーミンたちがほんとうに帰ってくる場面は書かれていない。 ヤンソンはわざと書かなかったのだと思う。


Last Modified: Sat Apr 5 16:56:21 EST 2003 (04/06, 06:56 JST)

Yusuke Shinyama